柱の裏の落書き

ひまつぶしにぶつぶつ書いてみる

意識

アセンション~五次元世界への上昇~


私はとうとう精神レベルが覚醒してしまったようだ。

完全に頭がおかしくなってしまった、それでも今、私に起こっている変化をどうにか言語化して、意識が正常なうちに文章に書き残しておかなければならない。

これから物理学と精神世界についてまとめていくが、はっきり言ってこのブログを開いた99%の人は理解ができないかもしれない。それでも少しでもわかりやすく説明するために、
なるべく難しい言葉は使わないように心がけた。

せめて、1%の人だけでも理解してくれたらありがたい。

***

この1、2か月で、明らかに私を取り巻く世界がものすごいスピードで変化していくのを感じる。

私自身、この変化について行くのがやっとだ。

自らの魂のレベルが解放され、次元が上昇していくことをアセンションと言うらしい。

私たちは、「」、「」、「高さ」という3つの次元が存在する三次元の世界に生きている。あるいは、そこに「時間」という軸を加えた四次元の世界で暮らしているともいえる。

アセンションでは、自らの精神の波動を高めることで、五次元の世界に移行できると考えられている。

五次元の定義はさまざまだが、一般的には
複数の時間軸がある意識空間(つまりパラレルワールド=並行世界あるといわれている。

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五次元の世界には、「現在」、「過去」、「未来」などの時間や、「縦」、「横」、「高さ」などの空間に制限がないという。

時間や空間を超越した世界に魂が順応できれば、自ずと世界の見え方が変わっていく。これは精神的な覚醒体験となるため、身体が存在する次元そのものは変化しないが、精神的には高次の存在へと生まれ変わっていくのだという。


***

・次元とは何か?

次元とは一言で言えば制限領域のことを言う。5次元とはつまり5の制限領域ということだ。

私たちは4次元空間、つまり4の制限領域の存在であるから、次の上のステップである5次元を目指しているということ。

結論から言えば、アセンションとは何かの意識の制限を外すことだ。

アセンションに到達すると、今まで溜め込んできた負のエネルギー、今までどうしても固執し、手放せなかった周波数を手放し、大きなポジティブな変化が現実になってくる時期となる。

それまでに想像もできなかったようないろんなことがいっぺんに起こってくるのだ。

次元とは制限のことを言うとすでに述べた。

すべてが可能になる領域があると想像してみてほしい、そこから段階的に制限をかけていくごとに次元は下がっていく。

ある物理学の研究によれば、この世界は最高で11次元まで存在していると言う。つまりそこはすべてがある次元のことだ。

そこから段階的に制限が発生していく。10次元は11次元よりも狭くなり、7次元は8次元よりも狭くなる。

このように次元が低くなるたびに範囲が狭くなって、制限領域が発生していく。

ここでいう5次元とは5の制限領域ということ、私たち人間は通常4次元、つまり4の制限領域の存在にいる。

私たちはよく「5次元に行く」という表現を使うが実はこの表現は正しくない、5次元という空間はどこか別の場所に存在するということではなくて、制限を外していくことで5次元に上昇していくという表現が正しい。

大切な話なのでもう一度言おう、5次元という別の空間に行くのではなく、5次元というのはこの世界にすでに存在していて、精神レベルを上昇させる、つまり今の既成概念を解放することで、その領域に到達できるという意味だ。

では、制限を外すということだが、「いったい何を制限しているのだ?」という話になる。

それは意識だ。

意識の制限を外すこと、私たちの思考は無意識のうちにいろんな制限をかけてしまっている。

もちろん生きていくために必要な制限もあるが、自分を縛るだけで大して役にも立たない思考パターンを必死で守ろうとしていたり、自分のことを客観的に観察してみると結構無駄な制限をかけてしまっていることも多い。

それらを解放していくこと、その負の周波数を外していくということで、私たちは5次元の領域に到達することができるのだ。

***

・アセンションの本質

アセンションとは何か意識の制限を外すこと、いうまでもなく、人それぞれ自分に欠けている制限は異なる。

どの制限を外していくのかそれを自分で見つけていく、それを特定して外していく。私たちはわざわざ4次元まで波動を落として4次元特有の周波数をこれまで味わってきた。今、この瞬間を折り返し地点と定めたならば、握りしめずにそれを手放し解放していく。

アセンションの本質とはつまり、固定概念を外していく、そういうゲームなのだ。

私は今、アセンションの状態にいる。ここからもっともっと意識を解放し、広げていくことができれば、もっと多くの世界線を同時に体験できるようになるだろう。

それは言い換えれば、自分にとって好ましい現実を取捨選択していくことができるようになるということだ。

運気を上げるとか運気が下がるとか、もはやそういった次元の話ではなくて、運自体をコントロールできるようになってくる領域。

それが5次元への上昇、アセンションである。

***

・相対性とは何か?


0次元から3次元までをざっくり説明すると0次元は点。

その点がいくつか集まって線になる、その状態が1次元。

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そしてその線がいくつか集まって面になる、それが2次元。

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その面がいくつか集まって立体になる。それが3次元というように1つ下の次元が集まって1つ上の次元を構成する。

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これが次元の仕組みだ。では、4次元とは何かということになるが、4次元とは空間の連合性の領域のことをいう。

空間の中に空間があり、その外にも空間が発生している。

家の中には部屋があり、部屋の中には冷蔵庫があり、冷蔵庫の中には野菜室があり冷凍室もある。部屋から出ての家の外に出ると、いろんな建物が立ち並んでいる。空間の中にはあらゆる空間が存在している。

同じように空間の外にも空間が存在している。空間が単一の3次元とは違い、空間が共存しているのでそこには相対性が発生する。

この相対性という概念がキーワードになる。相対性とは2つ以上の事柄の中に発生する関係性のことをいう。これは1だけの事象、つまり絶対性の対義語となる。

この相対性が発生することで、私たちは物事を比較することができるようになった。この相対性こそが3次元と4次元を分かつ最たるものだ。

***

・4次元の本質「時間」、それは人間が創造した概念に過ぎない

時間の本質とは変化のことだ。

物事の変化を「過去」・「現在」・「未来」という形で区別して、そこに分かりやすく数字を当てはめることで私たち人類は時間という概念を発明した。なので、時間は自然現象ではなく、人間が開発した概念だということになる。

そして、その変化は何かと何かを比較しなければ変化を観測することはできない。つまり相対性がなければ変化は起きないことになる。

2つ以上のものが発生している領域でないと変化は観測できない、なのでキーワードとなるのは相対性である。これが単一の空間しか存在しなかった3次元との違いだ。

4次元の領域だからこそ相対性が発生し、変化を観測できる領域になったということ。相対性の副産物として結果的に変化、つまり時間という現象が発生したことになる。

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画像引用元:Hatena Blogより「4次元の立方体の理解

つまり、4次元から変化が観測できるようになったというわけだ、このプロセスを簡略化して「空間+時間」と説明するわけだが、この説明は正しくない。

なぜかというと、その解釈は私たちにある誤解を与えてしまうからだ。その誤解とは、空間に何か新しい概念を足せばそれが次の次元になるという考え方、つまり空間に時間という概念がプラスされたから4次元になったのではなく、空間の連合性があるから相対性が生まれたということ。

そのことにより、結果的に変化が生じた。つまり、時間という概念が発生したというのが正確な観測の仕方なのだ。

「空間+時間」と説明されると空間に何か新しいものをプラスすれば、それが5次元になるという歪んだ公式(固定概念)が発生してしまっている。

a5 x5 + a4 x4 + a3 x3 + a2 x2 + a1 x + a0 = 0, (a5 ≠ 0)

「空間+時間」のような方程式を使って「4次元空間=時間+○○」、あるいは「5次元=空間+時間+〇〇」、「6次元=空間+時間+〇〇+〇〇」といったような公式で概念を理解してしまう、つまり○○に入るのは何なのだ?という考え方に固執してしまうのだ。

たしかに4次元の概念を説明するには「空間+時間」という考え方は間違いではないけれども この公式はそれ以外のどれにも当てはまらない。

この考え方で説明すると説明が楽ではあるのだが、一方で誤解を生んでしまうのも事実だ。

***

・5次元領域とは何か?


5次元領域において、5次元とはいわゆるパラレルワールド(並行世界)のことを言う。平たく言えば、選択肢の数だけ世界線が存在するということだ。

4次元では相対性が発生したことにより、変化を観測することができるようになった。では5次元ならばどうなのか?

4次元に比べて、5次元ではどのような制限が解除されたのか?そしてそれによりどのようなことが起きるのか?

5次元は先ほども言った通りパラレル(並行=並列)、つまり多重構造のことだ。

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画像引用元:「https://sgk2005.org/wysiwyg/image/download/1/526/medium

4次元が並列的にずらーっと連なっているというイメージを持ってほしい。4次元の意識では、そのたった一つしか認識できなかったけれども、ずらーっと重なっている世界線が意識に上がるようになってくる領域が5次元領域ということ。

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画像引用元:Yahoo知恵袋より「5次元の図の描き方を分かりやすく説明してください

重なっている世界線の近接している部分を同時に体験しているという感覚と言えばわかりやすいだろうか?

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例えば外出した時、家の鍵をかけたかどうか思い出せないとしよう。

まだ電車には間に合うはずだ、確認しに家まで戻るのか?それとも戻らないのか?この時、X:家に戻る、Y:家に戻らない、少なくとも2つの現実が同時に発生していることになる。

でも4次元の意識ではそれを同時に認識することはできない。

だから選択したものを現実として思い込む、例えば家に帰って鍵を確認したならば、それが現実だと思い込む。

それ以外の現実は体験できなかったのだから消滅したんだというふうに脳は処理してしまう。5次元の意識では近接する現象が同時に認識できるようになるというわけだ。

でも、ここまでならば実は4次元の意識でもよくあることだ。しかし、ある部分に決定的な違いがある。

それが臨場感だ。

同時に発生しているという臨場感が4次元の意識と5次元の意識では明らかに異なる。先ほどの例で言えば家に戻ったのかそれとも戻らなかったのか。

両方の現実を同時に体験したような感覚、その上で自らが今の現実を選択したという感覚、どの世界線の意識を閉じてどの世界線の意識を継続するのか。

それを取捨選択したような感覚、これが5次元の意識の制限が解除された状態だ。

もちろん、これは広大な5次元の入り口に過ぎないが、とはいえここが5次元の入り口だということだ。

本当は以前から5次元は体験しているけれど意識には上がってこなかった。

認識できなければ体験していないこととほとんど変わらない、臨場感という実感がないと現実という認識には及ばない。

まとめると、5次元の意識とそうでない意識の違いは何か?

その要素は2つある。

①並列的に存在している世界を認識できているかどうか、そして②そこに臨場感があるかどうか、この2つだ。

***

・5次元空間での感覚 


仮に意識が5次元の最大範囲まで拡大し、臨場感を持つならば、その意識はあらゆる世界線の自分を同時に体験し、最適な世界線を選択し続けることさえできるようになるだろう。

私たちの意識は、私たちの肉体が母親の胎内に宿った時、意識が肉体にインストールされる。意識とは自分が自分自身であると錯覚してしまう自我のことだ。

私たちは自分が自分自身であると思っているが、実は意識がインストールされた瞬間に、自分がどのような選択をし、これからの人生を歩むかという物語の初期設定はすでに決まっている。

すべてはあらかじめ設定されたプログラム通りに人生という物語は進んでいく。私たちは決して自らの意思で何かを選択しているのではない。

私たちは無意識の領域ですでに、どのような人生を歩むかが決まっている。人間には自由意志はなく、意識とは私たち自身の物語を1テンポ遅れで観察する傍観者のようなものだ。

私たちは何かを選択していると錯覚してしまうが、無意識の領域によって、それらはプログラムにしたがって選択させられているのだ。

しかし、5次元領域に到達することで、この物語の内容を同時並列的に存在する選択肢から最もよいものを選択できるようになる。

もちろん、すべての選択がうまくいくわけではないだろう。時には失敗も経験する。しかし、最もよいものを選択できる確率が驚くほど上がるようになっていく。

思うに、現在の肉体を持ったまま上昇できる次元はおそらく5次元までが限界ではないかと思う。6次元や7次元まで行ってしまうと、そもそもその感覚を言語化して説明できなくなるのではないだろうか?

それは今、私が話している4次元と5次元の違いとは全くレベルが異なってくるだろうと思う。

とはいえ、人によっては様々な体験をしたり表現をしている人がいるのも事実なので、私は安易にそれを否定したりはしない。

さて、話を戻すが、4の次元とは比較の次元だった。比較することで物事の変化を知覚してきた。だが、その比較こそが意識を4次元に縛りつける原因でもあるわけだ。

5次元は比較の次元を1段階上がった選択の次元である。無数に重複する世界線の可能性の数だけ発生した世界線。

そして複数の可能性のある選択肢の中から判別する力、これらを内包していなければ高い選択力を有しているとは言えない。人生はロールプレイングゲームのようなもの、ゲームを進めることで少しずつレベルが上がって様々なことが解除されていく。

今までできなかったことができるようになる、だから人生は楽しいのだ。

しかし、あなたの周りにいる他のプレイヤーはもっと先のエリアまで進んでいるかもしれないし、かっこいいアイテムを手に入れてうらやましく思うかもしれない。

自らの外側を基準にしていると劣等感を感じ、アイテムも自分のスキルもすべて陳腐なものに感じてしまうかもしれない。そしてその妬みを正当化するために自分よりも低い者を基準としていくことで自らに優越感を与え納得させる。

そうやって集合意識は外側をあえて低い基準にすることでバランスをとってきた。

今までの時代ではハンドルを他人軸にしていてもどこそこぶつかりながらでもなんだかんだ言って一応前には進むことができた。

でもこれからは多様化の時代、他人と比較する必要はない。私たちは意識レベルを変え、精神性を高めていく必要がある。

他人と比較することで幸福感を感じる、そういった固定概念は捨て去り、解放してしまったほうが楽だ。

あなたは上昇すると決めたら、自らの手でハンドルを握らなくてはならない、もし他人軸でその人と比較してしまうと、あなたの周波数は4次元から抜け出せなくなるだろう。

もしあなたが目覚めの道を選んだならば、アセンション(次元上昇)を起こすと心に誓おう、何よりも自分自身を信じることだ。

それがあなたにとって、5次元への最大の道しるべとなるだろう。

私たちが今まさに経験している人生というゲームの本質は、1つ1つの経験、つまり点と点とを結び、過去、現在、未来という線を形作ってきたが、もし点を自分で創造してそれを結ぶことができれば、選択肢はいくらでも増やすことができる。

同じようにアセンションに到達した仲間が増えて、そこに集合意識まで加われば、現実創造の自由度が地球レベルでより一段と増していくだろう。

***

・おわりに~アセンション後の世界~

今からちょうど1年くらい前、私はある習慣を変えた。

私は極度の強迫性障害があり、何事も二元論で考える癖に固執していた。

階段は左から登り、最後に右足で着地しないとまた1から登りなおす。何かを買ったりもらったりするときは必ず2つもらう。食事をするときは必ず左の歯で複数回噛んでから、右の歯で複数回噛んで飲み込む。

自宅やオフィスのレイアウトも左右対称でないと気が済まなかった。

私はある時思い立って、この習慣を断ち切るべく、何かを買ったりもらったりするときは必ず3つもらうようにした。「左」か「右」か。「正しい」か「正しくない」か、という二元論から第3の選択肢を取り入れるように意識した。

そうやって、2の世界観から抜け出し、一歩進んだ3の世界観に自分の価値観を強制的にシフトしていった。

大人になった今、子供の頃から続けた今までの習慣を変えるのはとても大変だったし、非常に大きな違和感を感じながらこの1年を過ごした。

しかし、それはやがて少しずつ変化となって、私の固定概念からの解放につながり、習慣を変えると、生活が変わり、やがては人生が大きく変化していった。

また、金銭などの対価を求めずに困っている人たちを積極的に助けたり、進んで寄付を行うようにもした。

現実世界では誰かを助けているつもりが、精神世界では反対に自分自身の魂が救われているという不思議な感覚を覚えるようになった。

アセンションを迎えた今、私は世界の見え方が大きく変わった。きっと精神的な次元が上昇したことで、良い影響がもたらされたのだろうと思う。

今の私は、生きているという感覚よりも、生かされているという感覚を体験している。

五次元の世界に精神が移行することで、時間や空間に捕われない自由な思考が手に入った。それまで次元の低かったトラブルへの関心も急速に薄れ、精神的な安定が得られるようになった。

もしかしたら、偉大な成功を収めた実業家や投資家、アーティスト、アスリートなどは言語化こそしないものの、大なり小なりこのような感覚を持ち合わせているのかもしれない。

精神的な安定は、幸せや成功を引き寄せることにもつながるだろう。アセンションに成功した今、私は新しいことに積極的に挑戦してみようと思う。

次はあなたの番だ、少しずつ固定概念を解放し、変化を受け入れてみてほしい。

そうすれば、きっと人生は大きく変わるだろう。



我々の神であり、我々の先祖たちの神よ。

この国、政府、指導者、そして助言者たち、そしてすべての公正で正当な権限を司る者たちのためにご加護をお与えください。

あなたのもとにあるこの地が、世界中に善を及ぼし、人々を平和と自由のもとにひとつにし、

「国は国に対して刃を向けず、人々はもはや戦争を知らない」というあなたの預言者の言葉を成就することができますようご加護をお与えください。

アーメン

精神異常⑦~精神障害と向き合う②~


あの日からずっと考え続けている。

「私はいったい誰なのか?」

「私の中にいる私たちはいったい誰なのか?」

意識とは、言うまでもなく記憶の連続保管機能の役割を果たしている。

連続した記憶は意識となり、意識の連続はやがて自我となり、それは私たちの人格を形成する大切な役割を果たす。

それにもかかわらず、私はどういうわけか時々記憶が分断してしまい、別の人格が私にとって代わり、私とは違う意識で私の役割を演じている。

考えれば考えるほど、私の思考は果てしない螺旋階段の渦に飲み込まれていく。

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私はたしかにあの日、自分の目の前に小さな自分が現れ、
自由意思ではなく―、まるで操り人形のように彼に導かれ、黄金色の階段を降り、夢の中に吸い込まれていった。

(参考:【精神異常⑤~デジャブ体験とタイムトラベル~】)

子どもの頃に見た夢は、あの頃感じた恐怖を私の脳内に投影し、気がつけば私はあの夢の中にいた。しかし、それは夢ではなく紛れもない現実世界だった。

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私がかつて夢で見た場所、子どもの頃に住んでいた夢の中の空間は、距離にして日本から5,200km以上、時間にして約35年も先にある未来の現実世界だ。

しかし、私の意識はすでにあの時、あの場所を訪れ、あの出来事を体験することを予め決定していた、それは今までの私の人生に自由意思はなかったと確信した瞬間でもあった。

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あの日、あの夢をきっかけに、私の自我はボンヤリと少しずつ分岐していき、再び見たあの夢をきっかけに、今度は私の
自我はボンヤリと統合しかけている

それでは、今までの私の人生は、いったい何だったのだろうか?

私が私であるという意識、その自我について考えてみたい。

***

【意識とは何か?】

一般的に意識とは、人間の行動を決めている高次元な存在、意思判断の最終決定機関であると考えられている。

私という存在は、私の意識が支配している。

さて、本当だろうか?

実は私たちが考えている常識のほうが間違っているかもしれない。

慶應大学の前野教授によって提唱された考え方である『受動意識仮説』というものがある。

それは、私たちの意識は、脳の活動の結果生みだされた「受動的な幻想」であるにすぎないというものだ。

*

受動意識仮説

私たちは普段、日常生活の中で活動し、普通に生活していても膨大な情報を脳が受け取り、処理をしている。

それらは私たちの意識の中で処理され、情報が統合されていき、その結果、私たちは一貫して連続した意識を持つことができている。これは一般的に言われている意識の捉え方だ。

これに対して受動意識仮説では、あらゆる情報処理は、すべて意識とは無関係に処理され、無意識の中で情報処理が行われているという仮説だ。

すなわち、意識とはその処理結果のうち、特定のものだけを選び、後から観測しているに過ぎないということになる。


私たちの脳は無意識(脳の中にいる小人たち)で行われる処理のうち、強く反応した処理結果のみを後から観測しているに過ぎない。

当然ながら、私たちの意識は脳内でそんなことが起こっていることなど知る由もない。

だから、私たちの意識はあたかも自らがそう思ったかのように、まるで自分がそれを体験していたかのように錯覚してしまう。

つまり、私たちは自分自身では何もしておらず、実は私たちの意識は、1テンポ遅れでそれを認識するだけの、ただの観測者だったということになる。

*

意識の正体とは?


ここである疑問が生まれる。

結局、すべての情報処理が無意識下で行われているとしたら、「意識はいったい何のためにあるのだろうか?」、ようするに「人間に意識など必要ないのではないか?」と。


これについて、受動意識仮説では「エピソード記憶」が関連していると説明する。

エピソード記憶とは「いつ、どこで、だれと、なにをした?」といった個人的な経験、あるいは思い入れのある事柄などをさす。

エピソード記憶ができるのは、人間を含む一部の生物だけのようだ。エピソード記憶は、個人的な記憶や思い出の記憶であるため、そこには当然ながら「」という主体を必要とする。

私たちは日々、多くの経験をし、その多くは
その場で意識にあがらず、無意識に行動を取っている。したがって、これはエピソード記憶にはなり得ない。

しかし、無数の情報の出力結果の中から特定の出来事が選ばれ、主体を持って体験したものはエピソード記憶となり得る。

これらの出来事を観測してエピソード記憶にもっていくもの、これこそが私たち「意識」の正体ではないか?と考えられている。

つまり「自分」という意識は、「私」という物語を記録し続けた結果、まるで私が自分であるかのように錯覚してしまっているということだ。

なるほど、たしかにそう考えれば、私とは幻想だったのかと腑に落ちる。

***

リベットの実験~自由意思の否定~

しかし、これだけでは納得がいかない。

なぜなら私たちには意識の他に、自らの「意思」があるからだ。

これは紛れもなく私という存在が体に命令を出して行動させているようにも見える。

では、やはり私という意識は存在するのではないか?

しかし、この意思の存在すらも否定する実験結果がある。



アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット氏は、私たちが自分の意思で指を曲げるときに、

①「指を曲げようと意図するタイミング」

②「脳に信号が発生するタイミング」

③「指が動くタイミング」

それぞれがどういう順番で起こるのかを調べる実験を行った。

実験方法はまず、被験者の脳に電極を指し、脳の電気信号を読み取れる状態にする。

その状態で被験者に丸の中を移動する点を見てもらいながら、自分の意思で指を曲げてもらう。

そして被験者が指を曲げようと意図したときに、〇がどこにあったのかを後で申告してもらうというものだ。

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多くの人が予想するのはおそらく、以下のようなものだろう。

①「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」

②「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」

③「行動する―指が動き始める―」

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画像引用:Wikipedia「リベットの実験

しかし、実験の結果は衝撃的なものだった。

①「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」

(0.35秒後)

②「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」

(0.2秒後)


③「行動する―指が動き始める―」

つまり、この実験からわかることは、私たちが何かをしようと決める前に、すでに頭の中で決定がなされていて、その決定を後から私という意識が確認しているということを示唆している。

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画像引用:「自由意志の三要件と脳科学との関係 -John―Dylan Haynesの研究を中心として(上)

これにより意識とは、私たちが思うような絶対的な意思の決定機関ではなく、ただの脳の観察者にすぎないことが明らかになったのだ。

このことから、意識とはただ単に脳の処理結果を観察しているだけのシンプルな存在だといえる。

この結果は、現在科学技術の分野で研究が進んでいる人工知能に意識を宿らせるための大きなヒントになるかもしれない。

***

【意識はどこにある?】

東大の薬学系研究科の池谷教授はいう。

科学で自我や意識を解き明かそうとすること自体、大きな勘違いかもしれません。



脳研究が進歩して、脳の機能はある程度わかってきている。

しかし、自我の機能を担当する場所はまだよくわかっていないのが現状だ。私たちは自我を強固な存在だと思い込んでいるが、実は、とても脆弱なものであるということだ。

たとえば、寝ている間、夢を見ていない時は、自我は消えている。また、麻酔にかかっている時も、私たちから意識が消失している状態だ。つまり、―逆説的だが―、麻酔薬の作用する場所を見つければ、私たちの自我や意識をつくり出す場所を発見できるのではないか、と真剣に考えている研究者もいる。

麻酔薬は脳のどこに作用して意識をなくしているのか、実は未だによくわかっていないそうだ。動物実験や臨床実験などを繰り返し、安全性に問題がないから使っているだけで、詳しい仕組みは不明である。

「なぜ効くのかよくわからないけど、いつもどおりこれを使おうか」

よく考えたらとんでもないことが、病院の手術室では日常的に行われていることになる。薬剤自体は化学物質であるため、化学構造式を見れば、薬剤ごとに特徴的な化学構造を発見することができるだろう。同じ症状に効く薬の化学構造式はどれもよく似ているため、薬品名を見なくても化学構造式を見れば何に作用する薬なのかわかるものも少なくない。

一方で、麻酔薬(麻薬)も様々な種類のものが使われているが、化学構造式に共通の構造というものがない。このことからも、麻酔薬がいかに特殊な薬であるかがわかる。

数年前に、麻酔薬が作用しているのは神経細胞ではなく、グリア細胞(※中枢神経系を構成するニューロン(神経細胞)以外の細胞のこと、神経膠細胞とも呼ばれる)のアストロサイトではないかと主張する研究者が現れた。

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画像引用:一般社団法人 日本生物物理学会グリア細胞

多くの人が、麻酔薬が作用するのは神経細胞だと思い込んでいるかもしれないが、実は麻酔薬を注入しても神経細胞は活動しているのだそうだ。麻酔薬で神経活動は止まらないのだ。

*

視覚系における情報処理に関する発見

有名な話では、1981年にノーベル医学•生理学賞を受賞したデイヴィッド•ヒューベルとトルステン•ウィーセルの実験がある。



2人がネコの脳の中で、視覚情報がどのように処理されているのかを解明した画期的な研究なのだが、実は当時の実験では、ネコには麻酔がかけられていた。

麻酔で意識がない状態にもかかわらず、実験では脳の中で視覚情報がどのように処理されているのか、そのしくみを解き明かすことができたのだ。


では、その麻酔下にあるネコは見えているのだろうか?少なくとも視覚野の神経細胞は、麻酔がかかっていても反応は停止しない。

ところが驚くことに、グリア細胞の反応は麻酔をかけると止まってしまうのだ。麻酔薬に敏感なのは、実は神経細胞ではなく、グリア細胞なのだ。

こうしたことを根拠に、グリア細胞に意識があると考えている研究者もいるそうだ。

*

時間とはヒトが創り出した幻想にすぎない

時間は、物理時間と心理時間の2種類に分類される。

物理時間とは「この宇宙空間に流れて
いるとされる時間のこと」、心理時間とは、「私たちが各々個体の中で感じる時間の流れのこと」をいう。

心理時間はあっという間に過ぎたり、ゆっくり過ぎたり、物理的な時間と必ずしも一致しない。通常、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦痛な時間は時間が経つのを遅く感じる。

ヒトの時間の認識は、記憶によって発展してきたと考えられている。私たちは時間の経過を、様々なものの変化によって見出している。もし世界がまったく変化しなかったら時間を感じることはできないだろう。

変化に気づくとは、違いを見つけ出す作業だ。それ以前の状態を「記憶」していないと、ものが変化したかどうかを判断することはできない。つまり、記憶がないと、時間の経過を感じることができないのだ。そして、ヒトは記憶を通じて 時間の概念を創造し、心理時間を感じるようになった。

たとえば言語は、過去・現在•未来を厳密に区別する時制を持っている。これは、ヒトの意識が時間、特に過去• 
現在•未来の区別を重要なものと感じてきた証拠である。

興味深いことに、世界には時制のない言語があるらしい。過去系や未来形は存在せず、現在系しかないのだそうだ。「今」こそがすべてという楽観的な考え方なのだろうか。

過去を振り返っても後悔しかない、未来のことを考えても不安しかない。実は「過去も未来もなく、今この瞬間が延々と存在しているだけなのだ」、とするアドラーの心理学な捉え方であり、私は個人的にはこの考え方が好きだ。

***
 
【この世界はホログラムによる仮想現実なのか?】

この世界がもし仮想現実(VR = Virtual Reality)だったとしたら?

テスラ社、SpaceX社のCEOであるイーロン・マスク氏によれば「この世界が仮想現実ではない確率は100万分の1であると」いい、天才物理学者の故スティーブン・ホーキング
博士によれば、「この世界が仮想現実である確率は99%である」という

この世界、そしてその中にいる自分は、いずれもホログラム映像に過ぎず、現実に実在しているわけではないのだという。この世界は、ソース(すべての源)という映写機によって映し出されている映像であり、それは幻想であり、ホログラム映像に過ぎないとするものだ。

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したがって、この世界に在るものは全てが仮想現実であり、ある対象に自らが注意を向け続けるときだけ、そのものが存在するようになるということを意味する。

私たちが今いる空間、見ている景色は私たちが意識している時間だけ出現し、
私たちが意識していない時間、認識していないものは、それらは存在していないようなものだ。

何とも意味不明だが、ゲームの世界に置き換えて考えてみたらいい。VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の遥かかなたにある空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。

あなたはニューヨークの自由の女神を見たことがあるだろうか?

あるいは、パリのエッフェル塔を見たことがあるだろうか?

今この瞬間、東京でこのブログを読んでいるあなたにとって、それらは存在していないのと同じことだ。

私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。


*

バートランド•ラッセルによる世界5分前仮説

哲学者のバートランド•ラッセル博士は「世界5分前仮説」を提唱した。

彼が主張したのは「この世界が5分前に始まったかもしれない
という仮定を覆すことができるか?」というものだ。

これは奇妙な仮定のように聞こえるものの
、実は私たちはこの仮定を確実に覆す手段を持っていない。なぜなら、自我もこの世界もすべて、個人の「記憶」に全面的に依存しているからだ。

あなたは「5分以上前の過去の記憶
を持っている」と思うかもしれないが、あなたのその記億は実は5分前にどこかから移植されたものかもしれない。その記憶が、どれほど鮮明な現実味を伴っていたとしても、「そう実感されるように慎重に植え付けた」と説明されれば、もはや反論のしようもなくなってしまう。

私たちの記憶は脳に刻み込まれていて、この世界を認識するのも、また脳である。ゆえに記憶を操作されてしまえば、5分前につくられた世界に何十年も住み続けていると思い込んでしまうことは、たしかに思考実験として矛盾は起きないのだ。

こうした単純な思考実験で、私たちが確固たるものとして信じている世界は、いともたやく揺らいでしまうくらい「私」は不確実な存在であるし、逆に、時間や自我がいかに記憶に依存しているかということを象徴しているともいえるだろう。



何者かが私たちの意識を初期設定し、例えば勉強が得意だとか、スポーツが得意だとか、もっと根本的に男女の設定やら数十年後に子どもが生まれるなどの設定をする。

設定を決めたらようやくゲームスタートだ。

「随分とリアリティーのあるゲームだ。そんなゲームがあるなら、ぜひプレイしてみたい」

そう思われたゲーマーの人も多いかもしれない。

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しかし実は今、私たちは超高度な能力を持った何者かが初期設定をしたゲームの中にいる。私たちは仮想現実であるこの世界を快適に楽しむために、脳という高性能なコンピュータを使ってプレイしている。

その
高性能なコンピュータは処理落ちを防ぐために、―シミュレーションゲームと同じような仕組みで―、それを見ていない間は存在しないものとして扱っているのだ。

もう一度言おう。

VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。

私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。

行ったことがあるから自由の女神やエッフェル塔が今この瞬間も存在しているわけではない。

私たちの脳は記憶に基づいて現状を把握することを常識としている、だけどもしこの世界の初期設定で
自由の女神やエッフェル塔を設置し、あなたという人間に「自由の女神やエッフェル塔に行ったことがある」という設定をして5分前に誰かがゲームをスタートしてこの世界が始まったという説を、誰も否定ができない。

過去は今の積み重ねだというのは「仮想現実だと見破られないため」で、過去や思い出はただのデータ、つまりゲームの初期設定かもしれないというわけだ。

しかし、この世界がバーチャルゲームだったとしたならば、必ずどこかにバグが生じるはずだ。

*

デジャブ(既視感)は初期設定のバグであるという説

実はそのバグの正体こそがデジャブ(既視感)ではないかと言われている。デジャブ(既視感)とは一度も見たことがないのに、既に見たことがある気がする不思議な現象のことをいう。

私たちが住んでいる(と考えられる)このバーチャル世界で、予め設定されたシミュレーションどおりでなく、初期設定にないものを認識する機能である。

一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。

過去の体験は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は過去に実際に体験したという確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なる。デジャヴは神経の“通り道”が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因するものである。


(省略)

記憶喪失や夢などのギミックと組み合わせて、物語の伏線として利用されることもある。

既視感=バグ説は映画マトリックスでも劇中に書かれており、仮想現実を再構築した時に発生するズレだと考えられている。

ようは私たちの人生をプログラミングした後で、退屈になって超高次元の能力を持った作成者がゲームの初期設定を突然変えてしまったようなものとイメージしてほしい。

私が体験したデジャブ(既視感)は想像を絶するほどの物語だった、あの経験がなければこのブログをこんなに深掘りして書くこともなかっただろうから。

あの日、私の過去のトラウマがキレイに1本の線でつながった。

デジャブ体験は、私の人生にとって非常に良い意味で大きな影響を与えることになった。

*

私1:「ん???ちょっと待って。ここはもしかしたら、、、夢の中じゃないかもしれない。」

私2:「夢だよ、ここは!何言ってんだよ、オレが朝っぱらから雨の中を全力ダッシュするわけないだろ」

私は、恐る恐る自分の左腕を掴んで思いっきりつねってみた。めちゃくちゃ痛い、たしかに肉体があるのを感じる。空に手をかざすとパラパラと雨を感じる。

ということは.....

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ここは夢じゃない!!私たちは今、夢で見た景色の中にいる...。


***

私たちに内在する多重人格者である自我

私たちは、自分が意識をして体を動かしていると思いがちだが、決してそんなことはない。 

私たちは日々、無意識のうちにたくさんの活動を行っている。
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たとえば、カフェで友人と話をしている時でも、しゃべりながらコーヒーを飲んでいるし、次に何を話そうかと頭の中で考えている。

さらにいえば、私たちの生命を維持している呼吸、心拍、体温の維持などもすべて無意識のうちにコントロールされている。

意識によって、自分のすべてを制御しているという考えは、完全に勘違いだ。人間にはたくさんの自己が同居し、常に複数の事柄を並行して処理している。しかも、ほとんどの事柄は意識(エピソード記憶)にはのぼらずに、無意識のうちに処理されている。

さまざまなことを同時にやっている「多重人格者の私」が自我を持つためには、「自分は1人しかいない」と意識上で勘違いすることが重要なのかもしれない。

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***

【おわりに】

私は先日、強烈なデジャブ体験によって、数年ぶりに非常に強い解離性障害を発症した。

それは、私の人生の衝撃度ランキングでダントツでトップクラスの出来事となった。

その後、どういうわけか幼い頃に分裂した人格が統合したり、記憶を共有できない別人格の私とも記憶をかすかに共有できたり、また、それまで受け入れることができなかった精神障害をようやく受け入れることができるようになった。

私は今、経験した出来事を思い出せるかぎり詳細に書き残している。

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現在、私にはいくつかの自我(意識)があり、それは原則として同じタイミングで出現することができない。
心理カウンセラーによれば、人格の解離は本来の人格を保護してくれる存在なのだという。

なぜこのようにエピソード記憶が複数存在しているのか、解離性障害(多重人格障害)は現代の医学では不明確な部分も多く、治療が困難な障害である。

私が思うに、人間には自由意思はないと思っている。多重人格者に比べて
一般的な健常者は、あまり物事を意識的に深く考える機会は少ないかもしれない。

しかし、私たち人間の脳は、複数の解離人格を持っていると考えている。たとえばお酒や睡眠薬を飲み過ぎて記憶がなくなったとしよう。

意識の連続保管機能が一時的に停止したとしても、自分の家を覚えていて、どうやって帰ったか覚えていなくても、気づいたら家に帰ってベッドで寝ていたというケースはよくあることだ。

つまり、あなたがあなたであるという自我はあなたの顕在意識にはなく、潜在意識下(深層意識下)で脳からの命令によって動いているのだと思う。

単一人格者も多重人格者も顕在意識は1つだ、意識しなくとも水面下では起こった出来事を記憶している。

しかし、決定的に異なる点は記憶の連続機能を果たす意識、すなわち顕在意識が何らかのひょうしに同時並列的に存在してしまうのが多重人格者ではないかと思っている。

こうして考えると、私たちの意識とは、単に脳の命令にしたがって1テンポ遅れで行動する観察者に過ぎず、私が私であるかのように錯覚しているだけではないか、と思うのだ。

人はみな、大なり小なり多重人格者だ、一般的な健常者の顕在意識はそれを気づかないふりをして生活しているだけで、解離性障害を持つ人は、たまたまそれが顕在意識にあがっているに過ぎないのだ。

うん、きっとそうだ。そうに違いない。

(おわり)

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精神異常⑤~デジャブ体験とタイムトラベル~


人間には自由意思はない、すべての物事はあらかじめ決まっていて、私たちはその指示通りに動いているだけだ。

こんなことを言うと、何とも夢のない話に聞こえるかもしれない。

嬉しいこと、悲しいこと、笑うこと、泣くこと。

すべての選択は、私たちはそれを自らの意思に基づいて行動していると思いがちだ。

しかし、残酷な話だが「私」が「私」であるとする「自我」は顕在意識の中でのみ起こっており、すべては私たちが無意識のうちに、潜在意識からの指令を受けて1テンポ遅れで行動しているようなものだ。

*

この世界は、おそらくパラレルワールド(並列世界)の無限構造をしていて、そこには無数の選択肢が存在している。


今、このブログを読んでいるあなたは、その幾重にも存在しているパラレルワールドのひとつの可能性を選択【させられた』にすぎない。した」のではない、「させられた」のだ。

あなたは生まれた瞬間から、オギャーと泣いて、ご飯を食べて、成長して、学校に行って、勉強をして、会社に行って、恋愛をして、どういうわけかこのブログを読む「」に至っている。

*

私たちの可能性は無限大だ。

「Aをする・しない」、次に「Bをする・しない」、次に「Cをする・しない」、次に「Dをする・しない」...n(以下繰り返し)。

この世界のすべてのありとあらゆる可能性は分岐していて、あなたは今、どういうわけか私のブログに偶然たどり着き、このページを読んでいる。しかしそれは偶然ではない、必然であり、それは起こるべくして起こった運命(さだめ)だ。

あなたには今から「私のブログを読む私のブログを読まないという選択肢があり、-少なくとも-、ここまでは「読まない」という選択肢を採用せずに「読む」という選択肢を採用している。

この先は「
読み進める」・「これ以上読まない」という選択肢があり、さらにその先には「読み進める」を選択した場合、「読むのを途中でやめる」「最後まで読む」という選択肢が存在している。

無数の選択肢のうち、最終判断をするのはあなただ。しかし、最終判断をしているのは実はあなたの顕在意識ではなく、あなたの潜在意識の中ですでに決まっている。

もし、興味があれば時間を取って少しだけ付き合ってほしい、私が「人間に自由意思はない」という考えに至った、ある出来事について。

以下の話は伏線と回収を繰り返すフラクタル(入れ子構造)になっていて、非常に理解するのが難しいかもしれない。果たして、あなたは最後まで読み切れるかどうか...。

***

【デジャブ体験】

先日、不思議な体験をした。

こんなバカバカしい話をマジメに書くのは、人生で最初で最後にしたい。

とても長くなるが、詳細に思い出せるかぎり書き残しておきたい。


その日は私の誕生日の打ち上げがあって、クライアントさんたち(こうちゃん、せいちゃん、しょうちゃん)と私の4人で飲んでいた。

焼肉を食べ終わった後、私たちはクラブへ行き、個室で飲んでいた。

ここまではいつもと何ら変わらない日常だ。

そろそろ飲み会も終盤に差し掛かり、酔いが醒めて来た頃、突然、私の中で危険シグナルが点灯した。

私は解離性障害を患っており、シグナルが出ると遅くとも2時間以内には家やホテルに戻り、しばし引きこもって周囲に迷惑をかけないようにしている。

私は帰る前にトイレに行こうとしたのか個室を出たらしく(同席者こうちゃんの証言による)、その後記憶を失った。

いや、私ははっきりと覚えていたのだ。たしかに私は個室から出て、ドアの向こう側に別次元の世界が広がっていたことを。

ギワタンギワタンギワタン、テンテンネロ

ギワタンギワタンギワタン、テンテンネロ

ギワタンギワタンギワタン...
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個室のドアを開けてしばらく歩くと、私は強烈なめまいを感じた。

声:「ジワッホジワッホ」

脳の中からジワッホジワッホと聞こえる。

そこに黄金色の渦が現れて、私を取り囲む。

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目の前に小さくなった自分が見える。

私はめまいを感じつつ、小さくなってしまった自分が座ったのを見ながら、私も同じように1テンポ遅れでその場に座り込んだ。

どこからともなく声が聞こえる。

声:「久しぶりだね、覚えてる?」

私:「えっ!?」

ジワッホジワッホ...

ヤバイ!!!この場面を覚えてる。何だっけ?


怖い夢、何度も見た夢。

ブゥー↑ウーン↑という音とともに、私は明るい空間の中にストーンと落ちてしまい、脳の中からジワッホジワッホという声が聞こえてくる。ここはどこだろう?

引用:「精神異常①~意識の相対支配より


あーーー、思い出した!小さい頃に見た怖い夢だ!!!!!


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声:「ねぇ、覚えてる?ちょっとついてきて」

小さい私が目の前で歩き出したので、私も同じようにつられて勝手に歩き出した。これは私の自由意思ではない

私は意識を集中させて正気に戻るか、急いで人格交代をして防御しようとするが、間にあわず、この夢の中に引きづりこまれていった。


私:「ダメだ、間に合わない。意識がもってかれる!!」

とっさに右手で左胸をおさえたのを覚えている、心臓がドクドクと音を立てていた。あ、生きてる。じゃあとりあえず大丈夫か、あとは、、、任せた...。

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強烈なめまいがした後に目の前に巨大な渦が現れて、そこに意識が引き込まれていった。

つまり、私は夢の中で気絶して、さらに夢の中に入っていくような意味不明な感覚だ。その直後に私は光のトンネルの中を凄いスピードでワープしていく。

場面が切り替わり、私は黄金色の階段を降りている。

あー、階段だ。懐かしい、覚えてる。これを降りて、たしか右に曲がってまっすぐ歩くとドアがあるはず。

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ドア!あった、たしかこのドアは閉まっているから手前に押すボタンが、、、あったあった。

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たしか夢の中で右手でドアノブをひねって開かないんだったっけ、だから一度手前に戻って右の人差し指でボタンを押すんだったかな。

階段を降りて右にまっすぐ歩くとドアがあって、どういうわけか鍵がかかっていて開けることができない。何回も夢を見ているうちに、手前の小さなドアを開けてボタンを押すとドアが開き、外に出られることがわかった。

ボタンを押すと、、、ほら外に出られた。このドアのスイッチはわかりにくいところにある。

だけど昔、何度も夢の中で練習したから今でもしっかり覚えている。


気が付けば私は、夢の中で知らない街を独りで歩いていて、笛のような音が遠くから聞こえていた。笛と一緒に空から声が聞こえる。

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ピーロロロー、ピロロロロロー。アジタカブーサン、アジタカブーサン。

天気が良いせいか空を見上げると太陽が眩しい。太陽からはお寺の鐘のようなゴォーーーンという音が、かすかに聞こえる。

ピーロロロー、ピロロロロロー。アジタカブーサン、アジタカブーサン。

あーーー、アジタカブーサンだ!!
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何を言っているのかマジで意味がわからないが、この場面は覚えてる。なんだかよくわからないどこか外国の街並みだ。



聞こえてくる音はこの動画の笛のような音だ。

私は夢の中の世界があまりにも怖くて両親にずっと話せず、胸の中にしまい込んだまま30年以上忘れていた景色だ。

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その次に、私は洞窟みたいな場所の中にいる。きのこのように土の中から屋根に青いネオンが輝いている建物が風船のようにムクムクっと現れる。建物は左右に揺れ、まるで踊っているようだ。青い光が眩しく、光からは漏電した電灯のようにバチバチっと嫌な音が聞こえる。

あー、この場面も覚えてる。大人になってみるとここは何の建物だろう。ずんぐりむっくりした建物だ。なんで小さい子供がこの場所の夢を見たのだろう?

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たしか、この店に入ると右側にカウンターがあって、5人の人がいて。右の二人はたしか...

店に入ると5人の客が右のカウンターに座っているのが見える(※幼児だった私は、バーなんて行ったことがないので、見たこともない光景に自分が入り、とても恐怖を感じたのを覚えている)。

うん、間違いない。覚えてる覚えてる。私はおそるおそる夢の中で右側を向いた。記憶がたしかであれば金髪のお姉さんと黒いロン毛のお兄さんが座っているはずだ。

右から2番目に金髪の女性、後ろ姿だけで顔はわからない。一番右は少しロングヘアの男性。男性は小さくて黒い箱を持っていて、ずっと覗き込んでいる。

この瞬間に、朦朧とした意識の中でゾッとしたのを覚えている。

小さい頃、夢の中で見たお兄さんが持っていた黒い小さな箱は何とスマホだったのだ。あの頃は1980年代、まだスマホはおろか携帯電話など存在しなかった時代だ。

最後に切り替わる場面では店の玄関を右に曲がり出口を出る。外に出ると私は頭を半分くらい店の外に出していて、外の世界はまるでCG(コンピューターグラフィック)で描いたような美しい鮮やかな景色だ。

「す、すごい。なんて鮮やかな景色なんだろう!」

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すごい鮮やかな景色だ、間違いない。この場面は子どもの頃に見た夢の中と一緒だ。

しかも出口のところに座りながら「お疲れ様です」と言ったのは、何と一緒に飲んでいる同席者の若者せいちゃんだったのだ。私がこの夢を最後に見たのが30年以上前、あとで彼に年齢を聞いたら28歳だった。彼が生まれる前に私はすでに彼と夢の中で出会っていたのだ。
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ここで私の視覚意識が正常に戻っていたので、今まで意識が強い解離状態にあったのだ、と理解した。

それにしても凄い時間だった。子どもの頃に見た夢を、まさかいい歳した大人になって再び見るなんて思わなかったからだ。

たぶん子供の頃に見たこの夢は、きっと眠りながら解離状態に陥っていて、今も同じ夢を見ているのだろうと思った。人生とは不思議なものだ。

*

明け方、外は小雨が降っていて、私は髪の毛や服が濡れた状態で店の近くの歩道で倒れていた。

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私:「あれー、おかしいな。さっきまであの建物の2階で飲んでいたはずなんだけどな」

自分の記憶を辿れるかぎり、個室を出てから店の前の歩道で倒れていることを認識するまでの間、私はどうしていたのだろう?

ここまで来るには階段を降りてドアを開けないと来られないはずだ

いったん冷静になって考えてみた。

1. 意識が強く解離幽体離脱)してしまい、意識だけが店の外に飛ばされた
2. 人格交代が起こり、私とは違う誰かがここまで歩いてきた

私はすでに解離性障害を持っており、かつて経験した幽体離脱のように、何等かの強いストレスによって1.が起こったのだと推測した。

ということは私の意識が肉体と現在地の間10メートルくらい離れてしまったので、意識を集中させて自分の肉体に戻らなくてはいけない。

飲み屋の個室を想像すると、私が倒れていて今頃みんなが心配しているはず。意識不明で倒れていて、みんなで体をさすって起こそうとしているはずだ。早く肉体に戻らないと。
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困ったことに店はすでに閉まっていて、裏口を叩いても反応がない。スマホはおろかカバンごと店の中においてきてしまっているのでどうしたらいいのか途方に暮れた。まさに「着の身着のまま」とはこういうことだ。意識を集中させて壁をすり抜けるしかない。

昔、臨死体験をしたとき、幽体離脱(=体外離脱、意識が強いストレスなどにより、座標軸がズレて意識が肉体から離れたように錯覚する現象)を経験した時のことを必死に思い出す。あの時は、どうやって自分の身体に戻ったんだっけ?

(参考:「精神障害④~臨死体験と幽体離脱~」)

※ 文章を読んでイメージできるかわからないが、私の意識はこの時点で臨死状態に入り込んでいると思い込んで、軽いパニック状態に陥っている。思考回路が支離滅裂だ

***

人格の任意交代

この時、私は自分のある能力を使うことを決断した(※私はDID=多重人格者だ)。

いわゆる意図的に今の意識を遠ざけ、意識の向こう側に待機している別人格を呼び出すのだ。これは解離性同一性障害(DID)を持っている人ならわかると思うが、-人によってやり方は違うが-、人格を任意で交互に存在させるのだ(※残念ながら同時に存在はできないし、記憶の共有はほぼできない。それでもやってみるしかない)。

心理カウンセラーからはストレスがかかりすぎるから絶対にやるな、と言われている方法だ、人格交代を短時間で頻繁に行うと、精神面と肉体面にとてつもない負担がかかるからだ。

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私は意識を一点に集中させて、違う人格を呼び出した。私の意識変性は中指と薬指を使い、右上の眉の上あたりを軽くこすりながら意識を集中させて行う(逆に言えば、ここが私の弱点でもある。私のこの部分を触ってはいけない)。

私2:「困った、解離してしまってあそこに戻れない。この夢って最後どうやって終わるんだっけ?」

(※ 私2は私のこと)

私1:「ああ、急いだほうがいいね、時間がないよ。赤い置物は覚えてる?その手前を左に走り抜けると夢から醒めるよ。たぶんそれで戻れる」

(※ 私1はかつての私のこと、どういうわけかある時点を境に主人格と交代人格が逆転してしまった)

私2:「わかった、やってみる」

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私2:「赤い置物、あった!!本当にあった!!」

私1:「あー、そうそう。その置物から2区画下がって、そこから全力でダッシュしてみて。区画の間で足を挫くと思うけど。最後に置物の手前を左に駆け抜けるんだよ。それで元に戻れるはず」

そして、知らない街の街外れの区画を2ブロック全力で走る。

走っている途中で時間内に赤い置物まで間に合わないと、夢の中で意識を失ってそこで夢が終わる。〇〇で〇〇でおしまいっ、と声が聞こえる(〇〇が何と言っていたか思い出せない)。

私2:「わかった、やってみる。この景色、覚えてる。夢から醒める直前に見ていた景色だ」

そして、知らない街の街外れの区画を2ブロック全力で走る。

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やはり足を挫いた。

なぜか1区画目と2区画目の間で足をくじく、何回同じ夢を見ても、同じ場所でつまずく。

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2区画を全力で走り抜けて、最後に赤い置物があるので、その手前を左に走り抜けると毎回夢から醒める。この夢はどういうわけか毎回52秒で終わるという設定になっている。

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2区画をダッシュ、夢から醒めない。

私2:「おかしいな、夢から醒めない」

気が付けばベッドの上で、パジャマが汗まみれだ。私はここで自分の意識に戻る。

私1:「ちょっとこっちに意識を集中させて。ボクがやる。せーの!」

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「あー、良かった。今日もこっち側の世界に戻ってこれた」

私1:「おかしいな、うまくいかないね。もう52秒経っちゃったから夢から醒めるはずなんだけどな」

ダメだ、どうしても現実世界に戻れない。。。

*

意識の彼方から母の声が聞こえる。私が空想している場面は父と母、私で夕食を食べているワンシーンの映像だ。

母:「人間ってね、自分が絶対に死なないっていう強い思いがあると、死なずに助かるらしいわよ。さっき、一命を取り留めた人から話を聞いたの。本当かしらねぇ」

そんな、少年時代に母が言ったことをぼんやり思い出していた。

困ったな、、、意識を肉体に戻せないと、このままあっち側に行ってしまう。

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世俗的な私だがこの時、人生で初めて心の底から神へ祈りを捧げた。今までの人生を悔い改め、心の底から神を感じるように。強く念じろ、強く念じろ。

すると、脳の中で幻聴が聞こえる。

声の主:「あなたは人生でやり残したことはあるか?」

私:「神よ、まだ顧客宛にメール返信が終わっていません、だから私は戻らなければなりません。私は現実主義者なのです」

声の主:「...」

脳が作り出した幻覚だろうか、私は冷静になって目を閉じると、黄色いヒモのような塊が意識の中に浮かんでいるのを感じた(※私は小さい頃から幻覚体質で、よく黄色や紫色の幻覚を見る)。
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私1:「ん???ちょっと待って。ここはもしかしたら、、、夢の中じゃないかもしれない。」

私2:「夢だよ、ここは!何言ってんだよ、オレが朝っぱらから雨の中を全力ダッシュするわけないだろ」

(どう考えても泥酔状態で外に倒れていた人間が、突然起き上がって街中を走っているようにしか見えない)

私は、恐る恐る自分の左腕を掴んで思いっきりつねってみた。めちゃくちゃ痛い、たしかに肉体があるのを感じる。空に手をかざすとパラパラと雨を感じる。

ということは.....

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ここは夢じゃない!!間違いない!私たちは今、夢で見た景色の中にいる...。
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ゾッとして鳥肌が立った。





たぶん、これを読んでいる人も、書いている私でさえ信じられないが、上記はノンフィクション、すべて実体験に基づくものだ。私があの日、体験したことをありのままに書き残している。

ネットで検索したところ、これはデジャブ(既視感)という現象らしく、かなりの数の体験談を見つけた。


Wikipediaには以下のように説明されている。

一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。

過去の体験は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は過去に実際に体験したという確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なる。デジャヴは神経の“通り道”が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因するものである。


(省略)

記憶喪失や夢などのギミックと組み合わせて、物語の伏線として利用されることもある。

意味が分からない人のために補足説明しよう。

私は夢の中を歩いているつもりが、実は脳の中で別の現実世界を創造し、その夢とまったく同じ配置の物理空間、同じ景色の中を解離した意識が歩いて移動していたのだ。

私がかつて夢で見た場所、子どもの頃に住んでいた夢の中の空間は、距離にして日本から5,200km以上、時間にして約35年も先にある未来の現実世界だ。

だから夢の中でドアを開けたり、全力で走っても物理的にぶつかることがなかったのだ。

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信じられない超常現象だが、自分自身が体験してしまった以上、ばかばかしい話だと完全に否定することができなくなってしまった。

<<ここまでの要約>>

  • 酒を飲んでクラブの個室を出たら、別世界があって意識が引きづり込まれた。
  • 子どもの頃に見た夢を数十年ぶりに見た、私は夢の中(知らない街)を歩いて移動していた。
  • 夢の中で練習した夢から醒める方法を試すも、夢から醒めることができない。
  • 知らない街を歩きながら、夢と全く同じ景色であることに気づいた。
  • 自分が夢を見ているのではなく、ここが現実世界であることに気づいた。
  • 子どもの頃に見た夢の正体は、実は遠い未来に起こる現実世界を見ていたことになる。

不思議な感覚だ、私の子どもの頃の夢で見た潜在意識は、
35年後にここに来ることをすでに知っていたのだろうか

先ほど私が呼び出した私1、今このブログを書いている私2、私が私を呼び出したのはあの当時、私たちは同じ意識を共有していたからだ(人格が分裂する以前、私たちはまだ私だった)。

だから、私が覚えていないエピソードは別の私が覚えているだろうという希望的観測によるものであり、あの場面で人格の任意交代をしたのだ。

思い出した。

この夢を何度も何度も見るうちに、私たちは少しずつ意識が別人格として少しずつ解離していったように思う。それはあまりにも怖い夢で、小さな子どもにとっては耐えがたいほどのストレスだったからだ。

*

どう考えても、自分が小さい頃に見た夢と現実世界が35年後に重なるというのは空想の物語としては面白い。おそらくこれを読んでいる方はそのくらいの感覚で読んでいるかもしれない。

ただ、私は体験してしまった以上、否定することができなくなってしまった。これを読んでいる皆さん、時間がある時に子どもの頃に見た夢を思い出してみてほしい。もしかしたら、あなたは気づかないうちに潜在意識の中でデジャブ体験をしているかもしれない。

*

結論として、私(たち)の推測は間違っていた。

1. 意識だけが強く解離幽体離脱)してしまい、意識が店の外に飛ばされた
2. 人格交代が起こり、私とは違う誰かがここまで歩いてきた

正解は2.だ。2.が正しい。私たち2つの人格は、私たちではない、さらに別の人格を経験(記憶を奇跡的に共有)していたのだ。

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ここで見える視界は、まるでブラウン管テレビのような縦長の雑なピクセルの画素を重ね合わせたような、まるでゲームの中にいるような視界感だ。

今でいうとVRゴーグルを装着したような感覚に近いかもしれない(VRゴーグルも没入感のある空間に入り込んだ後にゴーグルを外すと、一気に現実空間に引き戻されて、意識がついていけずにほろ酔い感覚になる)。

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私が夢の中を歩いているという感覚は、おそらく解離性同一性障害(DID)を引き起こしている時の私の脳の中で起こっていることだ(人格が違うと通常は記憶を共有できない。私1と私2は比較的弱い解離状態にあり、記憶を何となく共有できる)。少なくとも私(たち)はそう解釈している。

時々、記憶を共有できない誰かが私(たち)の中に宿っていて、その間、私(たち)はおそらく休んでいて、その誰かが、私たちの代わりに私の役割をしているのだと思う(いわゆるここで三重人格を体験できたことになる)。

短い時間だったが、私(たち)はこの解離(乖離)人格のことをジワッホさんと名付けた(本人がどう思っているのかはわからない)。私の代わりをしている彼と短い時間だったが記憶を共有できたことは、私の人生に大きな意味を持つことになった。新しい世界、向こう側の感覚が理解できたからだ。

この夢を何度も見るうちに、自分が自分であるという意識とは違う意識が、私の脳の中で動いている感覚を覚えた。もしかしたら、自分の住んでいる街と全く違う場所で自分が生きているかもしれないという現実感はたしかにあった。

それは夢という曖昧なものではなくて、まったく別の世界で自分が生きている感覚のようだった。まるで意識がCGの映像の中の世界に生きているようだ。

引用:「精神異常①~意識の相対支配より

興味深いのはこれだけではない、この瞬間に私の中の
1と私2が人格統合をした。すぐに戻ってしまうかもしれないが、今のところ私たちは安定している。

*

デジャブ体験の終わり

幻の終わりはあっけないものだった。

私はあの夢の続きを知りたいと思い、その後、現実空間で赤い置物を左に駆け抜け、そのまま全速力で雨の中を猛ダッシュした。

(明け方に雨の中を全力ダッシュ、ハタから見れば完全なるキチガイ野郎だ)

その先に偶然、店のスタッフの車が通りかかった。

店のスタッフ:「おい!どこ行ってたんだよ、みんな心配してお前のこと探してるぞ。一緒に仲間を探してやるからさっさと車に乗れ!」

店のスタッフにめちゃくちゃ怒られた。

私はその後、おそらく私を探し回っていたであろうみんなと無事に再会を果たした。

(なるほど、あの夢の続きはこうなっていたのか)

クライアント:「ユーディー、すげー探したよ!今までどこ行ってたの?めちゃくちゃ心配したんだから!」

私:「ごめんごめん、ちょっと色々あってね。まぁ、あれだ。どっかのカフェに入ろう、今まで起こったこと全部話すわ...」

それから約1時間、彼ら3人はこのキチガイの会話に
延々と付き合わされることになるのだった。

みんな優しいな、こんなキチガイの話に付き合ってくれるのだから。私は本当に周囲の環境に恵まれているなぁとつくづく思う。

後日、私は仕事帰りにあの場所へ再び出かけ、現場検証や当時の聞き取り調査を行った。

証言によれば私が個室から出るとき、私は私ではない、、、誰かの目つきをしていたようだ。

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このブログを書いている今、あの日から2か月以上が経った。

冷静になって、ひとつひとつ記憶を整理しながら文章を書いても意味不明だ。

あれは一体、何だったんだろう?

この出来事は今までの私の人生の中で最も衝撃的な体験となった。

***

【時空を超えたタイムトラベル】

あの日、家に帰った私は眠りについた。

夢の中で私は小さい男の子の身体に入り、そこから抜け出る体験をした。わずかな時間、私はその男の子を彼の意識の中から眺めていて、そのまま時空のトンネルをワープした。

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どうやら時空を彷徨って35年前に戻ってしまったようだ、彼に今日起こったこと、それから、、、あのわかりにくいドアの開け方を教えてあげよう。将来、きっとドアの開け方がわからずに困るはずだ。

どうか、大人になってこの夢のことを忘れてしまっても、潜在意識の中にそっと閉まっておいてほしい。いつかきっと必要になる日が来るはずだから。

じゃあね、バイバイ。
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そうだ、戻る途中にもう1か所、立ち寄る場所があるのを忘れていた。

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場面が切り替わり、今度は高校2年生くらいの男の子の隣に座っている。なんだか海を見ながら将来について悩んでいるようだ。

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私:「大丈夫、人生は思ってるほど悪いもんじゃないぞ」

私は彼の意識に語り掛け、意識がワープして私はそのまま目が覚めた。

不思議な夢だった。

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私はあの頃、何らかのひょうしに夢の中で時空の歪みの中に迷い込んでしまい、現在の私の脳内にワープしてつながってしまったのかもしれない。

それとも、現在の科学では不可能とされているテレポーテーションによって過去のある地点と、その未来が偶然にも量子もつれが生じ、つながってしまったのだろうか?

それ以外に上記の説明はつかない、子どもの私はたしかに30年くらい後に訪れることになるその風景、体験する出来事をすでに夢として見ていたのだ。


仮に上記のようなタイムトラベルが本当に起こったとしたら、私はこれまで自らの潜在意識が設定したプログラム通りに人生を歩み、私という人間の自由意思はなかったことになる。

だって、35年後に私がここに来るように、すべての人生はあの時すでに決定されていたのだから。

これが、私が人間に自由意思がないと確信した理由だ。

おそらく、私たちの人生の構造はフラクタル(入れ子構造)になっていて、過去に体験した伏線を回収していくゲームのようなものではないだろうか?

私はあの時、たまたまその状態を顕在意識の中で認識し、処理できていたが、もしかしたら意識しないうちに皆さんの人生の中でも起こっているかもしれない。

思い当たることはあるだろうか?小さな頃に見た夢を思い出してみてほしい。

それに気づくことが幸せか、
気づかないことが幸せか、私には真理はわからないが。

*

現在、過去、未来

もし、私たちが過去に戻れるとしたら、その時点から私たちの人生はいくつものパターンに分かれてしまう。

少年時代に勉強や恋愛に悩んでいて未来の自分をイメージする。

すると突然、未来の自分が現れて悩んでいる自分にアドバイスをする。

未来の私:「大丈夫、人生は思ってるほど悪いもんじゃないぞ」

SF小説のような話で、創作物としては面白い。ただ、そんなはずはない。未来から自分が戻って来れるとしたら、今頃未来からの旅行者たちで観光地やお土産屋さんは繁盛しているはずだからだ。

それに未来からの自分のアドバイスに逆らって別の手段を選択したら、その瞬間に未来の自分は存在できなくなり消えてしまう(これは親殺しのパラドックスと言われる。過去に戻って親を殺してしまうと自分が存在できなくなるという理屈だ)。

時間という概念は不可逆的であり、常に一方通行で進むことはできても戻ることはできない。だから、タイムマシンに乗ってきた自分は、過去の自分が別の選択をした瞬間に戻る場所を失い、消滅する。

論理的、科学的に考えると、創作物としては面白いストーリーもどこかに必ず矛盾が生じて、論破されてしまう。

引用:「精神異常①~意識の相対支配~」より

私たちの可能性は無限大だ。

「Aをする・しない」、次に「Bをする・しない」、次に「Cをする・しない」、次に「Dをする・しない」...n(以下繰り返し)。

私たちは何かを選ぶたびに、その数だけ世界が分裂する。

私は少なくとも、自分自身の世界の過去や未来には行くことが可能だと思っている。

物理学の世界では「宇宙ひも」といって、宇宙空間には素粒子ほどのひび割れが存在していると考えられている。

しかし、光の速さで移動すると、私たちは粉々になってしまうので、物理的にタイムトラベルすることは不可能だろう。

それでも、瞑想などの意識の領域でタイムトラベルすることは可能かもしれない。

私たちが覚醒して、自分の意識の中でマインドタイムトラベルができるとしたら?

肉体を持って物理的に行うタイムトラベルよりは可能性としては十分にあり得ると思う。

過去に未練がある人、未来が不安だと考える人。

私たち人間はその空想から過去や未来を考えることがある。

だけど、今を変えることで過去も未来も変えることができるのだ。

後悔やトラウマ、私たちは今、考え方を変えることで、その捉え方を変えることができる。

今があって全てがある。

何かに苦しんでいる人は今を変えてみてほしい。

あなたがあなたであるという顕在意識ではなく、潜在意識の深いレベルで。

今という瞬間を生きる、そうすることで自然とすべては変わっていくのだ。

*

今、この瞬間を生きるということ

人生山あり谷あり。

人生はなかなか思うようにいかないこともある。

しかし、全てのことには何等かの意味がある。

失敗は私たちに成功への軌道修正の機会を与えてくれる。

これはお金で買うことのできない貴重な財産となる。

お金は取られたらそれで終わりだが、経験やそこで培った知識は、私たちが生きているかぎり奪われることのない財産となる。

また、お金は失っても取り戻すことができるが、今という時間を取り戻すことはできない。

「お金と時間どちらが大事か?」という議論をする時、私は比較できないほど時間が大事と回答するようにしている。

「過去」を振り返っても後悔しかないし、「未来」のことを考えても不安しかない。

だから「今」この瞬間にできることを精一杯生きることが最も大事なことだと思うのだ。

*

私は上記の体験をきっかけに人生観が大きく変わった。

一度、自分自身と正面から向き合ってみようと。

今までの私の人生が、このデジャブ体験を持って一区切りしたような、スッキリをした解脱感を覚えたのだ。

私はこの直後、自らが精神疾患を抱えていることをクライアントに対して公表することになる。

人生急ぎ過ぎた、少しゆっくりしよう。

現在、私は精神科と心理カウンセリングを受けながら、新たな人生を模索している。

(つづく)

 

排泄欲求


もう何年も前の話だ。美容院でたまたま手に取った女性雑誌を読んでいたら、最後のページにストレス解消用の「壺」という恐るべき商品の広告ページが載っていた。

壺...。

その壺はどうやら大声で叫んでも外に声が漏れないらしい。疲れた
OLさんが一人暮らしの小さな部屋で思いっきり叫んでいる写真が載っていた。広告を読む限り、その商品はどうやら最近の売れ筋商品らしい。

「ア゛ーーー、ウォア~
、アヒャヒャヒャヒャヒャキャッキャッキャッキャッキャッキャッ、ウヒャーーーヒャッヒャヒャヒャヒャ

はじめに一言だけ言いたい、あなたは誰かと違っていい。

人目を気にして生きていてもつまらん、人生は楽しまないと(笑)

しかしその一方で、私たち人間は集団で生きる特性を持った動物であり、理性によって本能をコントロールすることが求められている。

社会の中で自らの存在を調和させ、本音を吐き出せない苦しみ、それは人類にとって永遠に解決できない根の深い問題である。

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(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【水分の入れ替え作業】

日が暮れて星たちが空に輝き始める頃、バーやクラブには人がたくさん集まり、みんな顔を赤くしながら楽しそうにお酒を飲んで、そして体を動かして踊る。

お酒を飲むとトイレに行きたくなるし、ダンスフロアで踊ると汗をかく。そして私たちは水分補給のために水やお湯を飲んでホっとする。

私たちの人体は100兆個を超える細胞から成り立っており、体重の約65パーセントを占める水分の約3分の2は、この細胞内に存在している。

こうして考えると、私たちの体内から容赦なく水分を奪っていくアルコールは非常に危険なドラッグだ私たちは、体内から水分を失ってしまうと、すなわちそれは『死』を意味する。私たちの生体機能は水なしで存続することはできないからだ。

あんな危険な液体を飲む人間の気が知れない、と思いながらビールを片手に今このブログを書いている私とはいったい何なのだろうか(笑)

(゚∀゚)

人間という生き物を客観的に分析すると、みんな無意識に水分の入れ替えを行っているように思う。

お酒を飲むと、私たちの体内からは水分が失われる。トイレに行って戻ってくると、あのなんとも言えない排泄欲が満たされた快感を覚える。

みなさんは飲み過ぎて吐いた経験はあるだろうか?口の奥まで指を突っ込んで一度吐き方をコントロールできるようになると、また違った快感を覚えるかもしれない。あれはあれで慣れると気持ちがいいもんだ。上の口からシャー、シャー。下の口からシャー、シャー。

お酒を飲むという行為は、本質的には排泄欲を満たすための手段である。体内によどんだ水分を強制的に体外へ放出し、帰りがけにお湯を飲んで新しい水分を体内に取り入れる。

みんなトイレに行って排泄を楽しむためにお酒を飲んでいるのか、それともお酒そのものを楽しんでいるのだろうか。

謎だ...。

サウナも同じようなものだ。本質的には汗をかくことで体内によどんだ水分を強制的に対外へ放出し、水風呂に飛び込む。その後、水を飲んで新しい水分を体内に取り入れると、気分がスッキリする。

みんなサウナに行って排泄を楽しむために汗をかいて喜んでいるのか、それともサウナそのものを純粋に楽しんでいるのだろうか。

謎だ...。

もちろん過程を楽しむ人もいれば、結果を楽しむ人もいるだろう。それは性癖の違いなので個人の嗜好の自由を尊重することにしよう(笑)

排泄、
排泄、排泄、、、この世界は今日も排泄欲に満ちている。

病める子羊たちの魂の叫び声がモニター越しに聞こえる...。

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叫び (エドヴァルド・ムンク) Wikipedia より転載

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【私たちの深層心理は排泄欲によって成り立っている】

マズローによれば生命の第一欲求とは
3つあり、すなわちそれは『食欲』『性欲』『睡眠欲』で構成されているとされる。


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マズローの欲求5段階説  「HRドクター」 より転載

これらは思考レベルを掘り下げて因数分解しながら、1つ1つ重ねていくと、結局は体外への排泄欲を満たす行為という共通点が透かし絵のように浮かび上がる。

★『食欲』

私たち人間は、動物や物から必要な栄養素を体内に補給して、それ以外の余分な部分を排出するように設計されているらしい。

私たちは美味しい食事を注文し、
食べた後にトイレに行って排泄をする。排泄する瞬間は気持ちがいいものだ。

『性欲』

セックスの時に射精をする、男性の本能にとって最高に意識レベルが頂点に達する瞬間だ。私たちの生存欲求であるDNA(自分のコピー細胞)はつまるところ、やはり水分で成り立っている。

男性の生存欲求である凝縮された水分の塊は、女性の
凝縮された水分の集まる場所を求めて、今日も絶え間なく排泄の機会を伺いながら彷徨い続けている。

女性は女性で、出産する瞬間は生命として究極の
排泄欲求が満たされるのだそうだ。私は男性なので、本当かどうか確かめようがないが、ある種の悟りの境地に達して、自らの生命としての役割をひとまず終えたような解脱感を覚えるらしい。

『睡眠欲』

人間は寝るときにかなりの量の汗をかくらしい。だから寝る前には、水を一杯飲んでから寝るのが健康にいいらしい。目が覚めると再起動された体内からは余分な水分が汗として老廃物と一緒に放出され、あなたは気分よく起きられるかもしれない。


こうして考えてみると、私たちの脳は無意識に、体内の水分を入れ替えようとしているのだろうか?

(゚∀゚)

ひとつ、まったくお金のかからない排泄欲求を満たす方法を教えよう。ちなみにオナニーではない笑

まず、息を吐く。次に、鼻から息を深く吸って肺にためる。最後に、しばらく経ってから口から一気に出し切る。

そう、深呼吸だ。人体の7割近くが水分(つまり水素と酸素)で成り立っているのだから、毎日時間を決めて体内の換気をしよう。

私も酸欠になりそうなほど毎日キーボードを叩いて仕事(生活?)をしている。To Doリストに全部チェックがついた瞬間の達成感、社会的責任から解放された瞬間の深呼吸は最高の贅沢だ。だから今日も私はハードワークを続ける。たぶんこれが死ぬまで続くのだろう。

手軽にできるので、ぜひ生活の中に取り入れてみてほしい。体内の空気の総入れ替えをすると、気分がスッキリしてあなたの排泄欲求が満たされるだろう。


(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【排泄欲求の上位互換】

自己顕示欲や承認欲求、あるいは自己実現欲求など、本能の上位互換に位置するこれらの欲求もまたその本質は排泄欲求だと思う

少しばかりお金を持つと、多くのヒトたちは少しずつ贅沢を覚え始める。

みなさんはブランドショップの前に行列ができて、人がたくさん並んでいる光景を見たことがあるだろうか?

シャネル、ヴィトン、グッチ、、、どういうわけか人の名前の入った布の塊を買うために店に並ぶ光景が浮かぶ。

物質的豊かさを満たすことによって集団幻想に酔いしれ、自己顕示欲を満たす人々の群れ。

あの光景はマジで謎だ、ある意味で排泄欲求の進化バージョンともいえる。

すべてがむなしいことよ。
風を追うようなものだ。
(「コヘレトの言葉」第2章・10節)

交換価値から始まったお金は、現代社会においては
「物質面」を満たすための手段として用いられ、今日も多くのヒトたちの排泄欲を満たし続けているようだ。

しかし、物質的豊かさによって排泄欲求を満たしたことで作り出した光(自己欺瞞)は、同時に心の中に闇を創造する。

少しばかりお金を持つと、ほとんどの人がやることはワンパターンだ。

時計、車、海外旅行、ブランド品から始まり、愛人、酒、ドラッグまで...。

もしかしたらずっと昔を生きていた縄文人たちは高床式倉庫を派手にリフォームしたり、弥生人たちはブランド品の土偶を買い漁ることによって承認欲求や自己顕示欲求を満たしていたのだろうか。

仕事柄、莫大な資産を手に入れた富裕層たち、名声を得て活躍する有名人や著名人と身近に接してきて感じたことは、人間の本質は何も
変わらないということだ。結局のところ、人間は究極的に-、最後は同じ末路を辿る。

「あらゆるものを手に入れるための富や名声を手に入れた。だけどなぜか心が満たされない。この感情をどう処理していいかわからない。苦しい、どうか私の話を、、、聞いてください。」

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【仮面の裏側】


時として、人は自分が誰だかわからなくなることがある。

そんな時は交番に行ってお巡りさんに聞いてみたらいい。

「私は誰ですか?」と。

親切なお巡りさんは困惑しながらも、こう答えるかもしれない。

「あなたはもしかしたら、、、病院に行ったほうがいいかもしれませんね」

***

日々、多くの方々と話をする。私は時々、不思議な錯覚に陥ることがある。

例えば、「社長」と言われる人は一般的に社会的地位が高く、社員や秘書の方、あるいは取引先から「社長」と持ち上げられる。オーナー経営者であればお金も持っているし、何不自由なく暮らしているはずだ。

私は耳元で囁く、「社長やオーナーというのはあくまでも社会の中で演じる役割であって、それはあなた自身ではないですよ」と。

*

例えば、著名人はそれなりの数のファンがいる。私は絶対になりたくない職業だが、街を歩いていると話しかけられるし、破廉恥騒ぎを起こすとニュースになるし、なかなか大変そうだということが伝わってくる。

私は耳元で囁く、「あなたが悩んでいることは、画面の前で演じる役割がプライベートに拡大していることによって、好感度を落とさないために演技し続けなければならないことであって、それは本来のあなた自身の問題ではないですよ」と。

*

例えば、クラブやコンパで隣の席に座った女の子と話をする。自己紹介で彼女に尋ねる。「あなたは誰ですか?」と。彼女はだいたい自分の名前を言い、何の職業をしているかを答える。

私は耳元で囁く、「あなたの名前は人間社会において国民国家があなたを識別するためのタグに過ぎず、あなたの職業もまた社会での帰属を説明しているにすぎず、それはあなた自身ではないですよ」と。

*

私がどんどん質問を深堀りしていくと、みんな頭の中が混乱するかドン引きしてしまうのだが(笑)、みんな仮面を外した本当の自分が何者であって、自分がこの果てしない宇宙空間にある小さな銀河系に帰属する、太陽を周回する第三惑星を覆っている海面から少しばかり顔を出した陸地の上に生息する生命体に宿った「あなたがあなたである」という意識が何か?を言語化して私に説明(排泄)することができず、多くの場合は戸惑い、そして苦しむ。

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私の経験上、あなたの意識が生み出した「あなた」という概念は多くの場合、
人間社会で演じる役割について話しているに過ぎず、あなたが本当は「自分自身が誰か?」という排出欲を処理できずに苦しんでいることが多い。

(ミナサーン、ツイテコレテマスカーーー笑)

(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャヒャ

現代社会はひと昔前に比べて豊かな社会になったという。そして豊かさを手に入れた人類は物質的な豊かさを求め、その代償として精神的な豊かさ、ひいては自分自身を失いつつあるように思う。

裏を返せば、人間の生命の欲求として定義される『排泄欲』とは、人間社会の抱える闇そのものといってもよいだろう。

社会全体は豊かになったはずなのに、どういうわけか豊かになったはずの社会が辿る結末はといえば、多くの精神疾患を抱える人たちが、十分に排泄処理ができずにもがき苦しむ世界である。

(ボクデヨケレバ、アナタノオナヤミヲオキキシマスヨ

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【心の闇】

光が大きくなると、同時に闇も大きくなる。

想像してみてほしい、自分に光が当たると、自分の影ができる。

私たちは自分の影を隠すことはできない。

そして、私たちはその
影から逃れることはできないのだ。

いつまでも、
どこまでも追いかけてくる...。

私たちの心の中には少なからず闇(ダークサイド)が存在している。みんな本当の自分を出せずに苦しんでいる。
これはおそらく人類が誕生した時からの宿命だろう。

人間の脳内に存在するこの『闇』というアプリケーションは非常に厄介で、神が人間を設計した時にどうしても取り除けなかったソフトウェアのバグのようなものだろう。だから、手に負えずに中途半端な状態で人間のコンパイルボタンを押したに違いない(笑)

闇は私たちの住むこの次元に存在する、あらゆるものを包み込む、文字通り神聖不可侵(アンタッチャブル)な存在なのだ。

私たちは束の間の光を楽しむ、そして同時に光は闇の中に存在する---。

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【職業病の苦しみ】

我ながらミラクルな性癖だが、私は昔から人の闇の部分を覗くのが好きだ。

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仕事柄、多くの人々の個人情報を管理し、あらゆる闇までも墓場まで持っていくプロフェッショナルとして、かろうじて社会の一員としての居場所を確保している。

これが正常な精神状態で唯一、私が私として人間社会に存在できる唯一の私の居場所だ。私はおそらく仕事をすることによって、無意識に自らの性癖を満たしているのだろう。

自分だけが知り得た、自分以外の生命体に内在する意識の裏側(ダークサイド)、意識の排泄物として吐き出される、終わりなき螺旋階段を這いずりまわる不協和音の轟く狂気の旋律。

私はそれらを飲み込み、私自身のダークサイドを広げ、ブラックホールを育んでいる。

闇という究極の個人情報を知りえた「優越感」に浸り、それと同時にそれを墓場まで持って行かなければならないという無常の「苦しみ」もまた、そこに内在する。

それは言葉にできないほど私の支配・征服欲を満たし、また同時に排泄が決して許されない究極の苦しみを味わう瞬間でもある。

誰かが苦しみから解放されて、解脱感に満ちた、排泄欲が満たされた何とも言えない顔の表情が好きだ。それと引き換えとなる私が受ける代償は決して小さくはないが。

私はおそらく究極のドSであり、また同時に究極のドMだろう。あの、支配・征服欲が満たされると同時に、排泄が絶対に許されずにもがき続ける感覚がたまらないのだ(笑)

これは職業病を通り越して、もはや狂気の沙汰でもある。

時々、仕事を引退しないのか?と聞かれて回答に戸惑うことがある。あえて言えば、エネルギーを消化できる場所がなくなると、自分の余剰エネルギーがおかしな方向に行ってしまい、何をしでかすかわからないというのが本音だ。

私は誰かの闇を吸い込み、それをエネルギーに変換して快楽を覚えるアブノーマルな生き物だという自覚がある。何度も悩み、苦しみながらも自分のエネルギーを、社会にとってより良い方向に使えるように理性でコントロールしているのだ。

ひとたび私のブラックホールに入りこんでしまった者は誰であれ、容易に抜け出すことはできない。

だから、社会的マナーとして、私は事前に自分がナチュラルに相当ヤバイ奴だと伝えてから相手と話すよう心掛けている。そうしないと、私はあなたを無意識にブラックホールに引きづり込んでしまうかもしれない。

(ヒトヤモノニイゾンシタラ、アナタハムイシキニシハイサレル)

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【排泄欲求を満たす者は全てを征する】

今や私たちの生活のほとんどはインターネットにつながり、私たちはパソコンやスマホを使って常にオンライン接続の環境で生活するようになった。

それは、オンラインとオフラインが同時に存在する二重世界(パラレルワールド)であり、自分が演じるべき自分と、本来の自分そのものの境界線が失われつつあるということを意味する。

インターネットがまだ普及していなかった時代、学校や仕事が終わると、自分の部屋の鍵をかければ本来の自分に戻れる時間が今よりももっとたくさんあったように思う。今では、部屋の鍵をかけても、時々聞こえる電子音で、私たちはまた仮面を被った姿を演じなければならない。

オンラインとオフラインを交互に行き来すると、当然ながら脳に異常な負荷がかかってしまい、処理ができなくなる。処理ができなくなると、あなたの脳はフリーズする。フリーズしたら再起動(睡眠)して、また二重世界に戻って脳に負荷をかける。

この状態を長く続けると、脳が処理しきれない状態となり、処理しきれなかったものは脳内のゴミとなって、やがてゴミどおしが結合して膨大なエネルギーを発生させ、ブラックホールを形成していく。

現代を生きる私たちは、慢性的に脳の排泄処理が追いついていないような状況に陥ってしまっているように感じる。

この20数年間のインターネットの歴史を見てきて思ったことは、社会全体が疑似的な多重人格障害に陥ってしまい、下水道にヘドロが溜まり、排水がうまくできずに、心の中で負の洪水が起きているような状況のように見える。

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時々、変な新興宗教やマルチ商法にハマってしまう人、わけのわからない情報商材を買って満足したり、詐欺被害に遭う人の心理状態について調べることがある。

そこで見えてきた共通点は、それらのドラマ(舞台装置)が、どれも言葉巧みに人々の闇に訴え、闇を吐き出させるように設計されているということだ。

これらは今に始まったことではないが、
大都市が巨大なスラム街を擁するのと同じように-、一定数のヒトたちはこうした方法で闇の排泄処理をして、一種の精神的安定を維持し続けているのかもしれない。

裏を返せば、「排泄欲求を征する者は、誰かの肉体や精神までもコントロールできてしまう」ともいえる。ヒトやモノに依存しすぎてしまうのは非常に危険だ。

世の中にはたくさんのトラップ(闇の排泄方法)が仕掛けてある。うっかり変なものに引きづりこまれて意識を持っていかれないように...。

ちなみに、、、私は今日もブログに苦しみを書き出しながら、
電子空間上にゴミを排泄し、下水道の掃除をしている。

自らの意識を正常に保つために。。。

排泄方法は人によって違う、みんな自分なりの方法を模索しながら正気を保ってくれ(笑)

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【誰かは誰かの変態である】

子どもの頃、夢中になって夜更かしをしながらゲームをしたり、寝そべって漫画を読んだり、女性であればおままごとをしたり、我を忘れて何かに没頭したこと経験はみんな少なからずあったと思う。

まるで自分の意識がどこか遠くに持っていかれたような感覚に陥り、そこには時間という概念はなく、ただ我を忘れて夢中になる。そういったものを大人になった今でも、自分の意識の中に持ち続けられている人はとても幸せなことだと思う。

あなたがあなたであるという自我を失い、夢中になって何かをしている時、おそらくそれが人間にとっての一番幸せな瞬間だろう。

あなたにとっての「それ」はいったい何だろうか?

あなたは人と違っていい。

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今まで多くの方々の悩みや相談に乗ってきて感じたことは、人はそれぞれ独自の感性があり、排泄欲の形があるということだ。

なかにはミラクルな方法で排泄欲を満たす人もいる。残念ながら、あなたが居住している国家が法律として禁止されていることが最も至高の排泄欲になっている方は少し可哀そうに思う。

無意識にコンビニで万引きをして逮捕されてしまったり、児童ポルノやアブノーマルなセックスなどの性的嗜好、危険ドラッグの常用など、国民国家の枠組みや人道的な理由で規制されている場合、自分の理性で本能をコントロールしながら、自分自身の意識の深層レベルで納得できるまで自問自答を繰り返し、また誰かに悩みを聞いてもらい、別の疑似的な方法を探して解決するしかない。

こういった特殊な嗜好によってのみ、心の底から排泄欲を満たすことができない場合、それは少し可哀そうだ。同情できないという人のほうが多いと思うが、本人にとってはそれが苦しみでもあるのだ。

これこそが、群れとして集団生活するように進化を遂げた人間社会の抱える闇として、最も解決が難しい人類最大の永遠の課題でもある。

誰かは誰かの変態だ。これは人類という高度な知能を持った生き物が永遠に苦しみ続ける宿命でもある。

(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)(゚∀゚)

【究極の排泄行為とは?】

2004年、春のことだったと思う。

私は急性大腸炎を発症し、高熱を出して電車の中で意識を失ったことがある(らしい)。目が覚めて意識が戻ったのが3日後で、それまでの間、自分の体から意識が抜けるという不思議な体験をした。いわゆる精神医学でいう体外離脱(幽体離脱)と呼ばれる症状らしい。

意識が戻り、後で医師や看護婦さんから聞いた話では、43.1℃という超高熱状態で、心拍数が低下し、呼びかけても意識がなかったらしい。

(※ちなみに人体は42℃を超えると数時間以内に死亡する確率が上がる。身体を構成するたんぱく質の中には、42℃を超えると熱凝固し、物理的に生存できなくなるらしい。だから一般的な体温計には42℃までしか測定できなくなっているそうだ)。

興味深いのはあの日、今まで蓄積してきた自らのエネルギーが解放され、意識を対外へ放出するという究極の排泄行為を経験したことだ。

たしかに私には自分が自分であるという意識(記憶)がしっかりとあって、自分の意識があるのにも関わらず、そこには寝ている自分がいて、それを見ている自分がいた。

「うわー、なんじゃこりゃ!?」


意識は最後には肉体と分離するらしい。

そして肉体から切り離された意識は、どこにでも行くことができる。

この物理的な空間、ひいては時空を超えて。

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ここで、私の意識の中に知的好奇心が芽生えた。

意識は光より早い、過去に行ってみたい。ものすごいスピードで過去の幻影が脳裏に映し出され、やがて生まれた瞬間まで戻った。

その先に行くと、水の音がした。おそらくお母さんのお腹の中だろう。ということはこの時点から実は意識というものは存在していたのだなぁと思ったのをよく覚えている。

意識とは記憶の連続保管機能であると仮定すれば、実は私たちは自我が芽生える前の意識を忘れているだけなのかもしれない(ちなみにそれまでの私は、胎児だった頃の記憶は全くないし、今もない)。

その時の光景を少し遠くから眺めてみると、母親がお腹を抱えてしんどそうにしながら、買い物に行く途中に近所のベンチに座っていた。あー、これは大変そうだ。戻ったら親にはもっと感謝しないといけないなぁ。

「...?」

さらに知的好奇心は尽きない。

ということは意識って実はもっと前にあったのだろうか?そう思い、もっと前に戻ってみるとその先は光のない漆黒の暗闇だった(当たり前だが、意識が誕生する瞬間をこの意識では確認できない)。もっと先(時間軸でいう「それ以前」)が存在していたのだろうか?それとも向こう側にはまた別の意識があるのだろうか?

うーん、もし始まりの前に戻ってしまったら、今通ってきた元の場所に戻ってこれないかもしれない。戻ってこれなかったら、そもそも今存在しているこの意識がはじめから存在しなかったことになるかもしれない。

そうなると、そこに寝ている自分が自分ではなくなってしまうし、もしかしたら存在できないことになってしまう。もしこれ以上先に行ってしまうと(前に戻ってしまうと)、過去を変えることができてしまうので、今度はベッドに寝ている私が消えてしまい、意識が戻る場所がなくなる。

いやいや、それは困る(笑)

この先に行くか、自分の体に戻るか。

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究極の二者択一に迫られ、私は結局、戻ることを選択し、自分の人体に戻った。戻れないと困るので。

不思議だ、もしあの時、あれ以上前に進んでいたら(意識の存在する以前に戻っていたら)、私という存在、つまり帰り道が今度は暗闇になって進めなくなって(戻れなくなって)しまっていたかもしれない。

それとも、帰り道が複数に分岐していたのだろうか。

まぁ、、、深く考えてもあれはおそらく、、、全部夢だったのだろう。

(今となっては無理だけど、あの時誰かの肉体に入り込めるか試してみればよかった。そもそもこんな状態になることを想定して生きていないのでそんなアイデアを思いつかなかった笑)


非科学的な現象を一切信じない現実主義者の私にとって、今でもあの感覚は言葉でうまく説明ができない、あれは一体何だったんだろうか、と。

正直なところ、それは3次元でいう上下左右の感覚がなく、時間の感覚もなく、フワフワしてとても気持ちがよかった。

宇宙もビッグバンの強烈な爆発エネルギーから誕生したと言われる。宇宙の誕生前に戻るとどうなるか?という思考実験と、おそらく本質は同じことだ。その前の時間軸に戻って過去を書き換えてしまうと、現在への帰り道がなくなってしまうかもしれない。

私が目覚めた時に悟ったこと。生きることは決して楽ではないが、その分、最後に究極の排泄を行うときは最高に気持ちいいらしいと。なかなかアブノーマルな思考だ(笑)

ただ、誤解しないで欲しいのは、決して死を選択することを勧めているわけではなくて、生に対して私なりの肯定表現だと捉えてほしい。

人生は山あり谷あり、何事も変動があったほうが楽しい。

人生とは死ぬまでのヒマつぶしだ。私はそれ以降、生きる意味を模索し、自分が没頭できるものを探し、生きているかぎりエネルギーを最大化させようと考えた。

その分、最後は究極の排泄欲が満たされるに違いないと感じたからだ。

あの先に何があったのかは、本当に「その瞬間」が来たときに経験できるかもしれない。ただ、このブログに書いて共有できないのが残念だ。だって、本当に行ってしまったら、私はもうここには戻って来れないのだから。

死は最高に気持ちいい(かもしれない)、一方で生きることは苦しみの連続でもある。

しかし「死」という究極の排泄行為を最高のものにしたいならば、私たちは「生」を全力で楽しむほうがいい。

物理法則と一緒で、「生」と「死」は振り子の大きさに比例する。一方に力強くひいたバネは、他方に同等のエネルギーをもたらす。

今、私たちが生きているこの瞬間、私たちは無意識に呼吸をし、酸素を吸って二酸化炭素を放出している。水の惑星に生まれた私たちにとって、空気とはなんてすばらしい共有財産なのだろうか。

私はあの日からそれまでの欲深さや執着心がなくなり、自分を認識して存在していること以上に多くを求めなくなったように思う。

毎日、笑ったり泣いたり、時には落ち込んだり、、、私たち人間に感情があるのは、最後の瞬間の恐怖感覚を麻痺させるために、少しずつ体に覚えさせる練習をしているのかもしれない。

(゚∀゚)

マズローは5段階の欲求階層の上に「自己超越」の段階があるとした。

それは、"
目的の遂行・達成のみを純粋に求める" という精神の領域を指し、それは見返りを求めず、自我を忘れてただ目的のみに没頭することを言うのだそうだ。

自分らしく生きること、それは究極の排泄欲なのかもしれない。

「過去」を振り返っても後悔しかないし、「未来」のことを考えても不安しかない。

だけど、実は過去も未来もなく、すべては「今」の連続に過ぎないのだ。

「今」という瞬間を全力で生きること、これこそが生きている私たちが体感できる究極の排泄行為なのかもしれない。

こうして私は今日も苦しみながらも排泄行為を楽しむ。

(゚∀゚)

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柱の裏の落書き

 

人間はその本能から「死」を意識したとき、無意識に何かを残そうとするのだそうだ。


「死」とは本当に不思議なもので、生きているかぎり絶対に手に入らない存在だ。

なぜなら、「死」を手に入れることは、同時に「生」を失うことを意味するからだ。

「死」を手に入れたと実感するためには、「意識」の存在が必要になる。

ところが、「意識」が存在してしまうと、「死」を手に入れることができなくなる。

「死」を手に入れるためには、「意識」が存在していてはならないのだ。

その意味では、実は誰も本当の死を知らないことになる
...

生きている人間にとって、「死」とはある意味で絶対に手に入れることができない「憧れ」の対象であり、同時にそれは
手にした瞬間に「生」そのものを失ってしまう「恐怖」の対象でもある。


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歴史的な建造物を作った大工さんは、
柱の裏とか、誰にも見えないところにひっそりと自らの名を刻んだという。

きっと自分がその時代に生きていたことを、
何か形として後世に残しておきたかったのだろう。

単なる自己満足を追及するだけの自慰行為なのか、
あるいは誰かに気づいてほしかったのかもしれない。


自己顕示欲とそれが叶わないもどかしさ
...



人は生まれ、やがて死ぬ。



今、まさにこの瞬間、
「自分が自分である」と認識している意識さえも失ってしまう日がやって来る。

私たちは「自我」が芽生えた時から世界が始まり、それを認識できなくなった時点で世界は終わってしまう。

実際には、私たちが生まれるずっと昔から世界は存在しているし、私たちが死んでからも世界は続いて行くのだろう。

しかし、永遠に続いて行く時間の中で、私たちは自我を認識できている時間の中でしか、自らが存在していることを感じることはできない。

その意味では、過去と未来が存在するにせよ、結局は存在しないのと同じことではないだろうか。



絶対の存在しない世の中で、唯一約束された未来がある


それは、いつか必ず人は死ぬということ。

私たちは確実に終わりに向かって歩いている。

永遠に続く時間軸の中で、どこかで必ず自我の認識は止まってしまう。

ある日突然、終わりが来るかもしれない。


人間はその本能から「死」を意識したとき、無意識に何かを残そうとするのだそうだ。



私はいったい何を残せるだろうか
......

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