いたずら好きのトム・ソーヤ少年は、ある夏の日、母親代わりのポリーおばさんから罰として課せられた命令で塀のペンキ塗りをしなければならないことになった。
その塀は長さがなんと30メートル近くもあって、子ども一人で塗るのは大変な重労働だ。夏の盛りだというのに河に泳ぎには行けず、1日中、トムは炎天下で汗水垂らしてハケを動かし続けなければならない。
そこへ友だちがやってくると、トムは一計を案じてペンキ塗りがいかにも楽しい仕事であるかのように振る舞い、もったいらしくハケを運び、一歩下がってはその成果を眺め、仕事に集中しているふりをした。
それを見ていた友人たちも次第に興味を惹かれ、ついにたまらなくなって声をかける。
「おいトム、僕にも少しやらせてくれないか?」
トムはいろいろともったいをつけながら、ペンキ塗りがいかに難しい仕事であることを説明すると、友人たちはますますその仕事がしたくなって、ついにはボールやリンゴをあげる代わりに仕事をさせてくれないかと頼み込む。
トムはしぶしぶと仕事を代わり、友人たちは喜び勇んでペンキ塗りを始める。
こうして、トムは通りがかる友人を捕まえてはペンキ塗りの仕事に引き込み、仕事をさせてあげた代わりにみんなが大事にしているおもちゃのたぐいをせしめる。
たしかに、ペンキ塗りはそれが強制された仕事でなく自発的にする仕事であれば、とてもやりがいのある仕事だろう。
ウィリアム・モリスの言う「心身の楽しい活動」としての仕事や、カール・マルクスの言う「第一の生命の欲求」としての労働は、実は私たちの誰もが一度は経験したことがあるに違いない。
だからこそ、私たちはこのストーリーにどこか共感を覚えるのだ。
***
【疎外された労働からの解放】
冒頭のトム・ソーヤのペンキ塗りの話では、少年たちは、大切にしていた私有財産をトムに支払ったうえで、労働する権利を与えられる。
これは私たちがよく知っている、労働の対価として報酬を得る資本主義制度とは完全に真逆の原理だ。
労働がひとたび交換価値(報酬)に置き換えられると、それは疎外された労働となってしまい、そういう世界では「第一の生命の欲求」としての労働は存在することができない。
かつてマルクスが描いたユートピアは、交換価値の存在しない世界であり、したがって、交換価値の媒介となる貨幣も、それが流通する市場も存在しない世界である。
「ここでは、生産物に支出された労働がその生産物の価値として、すなわちその生産物に備わった物的特性として現れることもない」
カール・マルクス『ゴータ綱領批判』
ここでいう、「生産物の価値」とは、生産物の交換価値のことであって、交換価値がなくなれば、ものを交換しようにも交換することができない。というよりも、市場における交換そのものがなくなれば、交換価値という概念そのものが消滅することになる。
労働の疎外論をもとに考えると、疎外された労働には経済的側面と心理的側面とに分けられる。
経済的側面とは「それが搾取された労働であること」を意味し、心理的側面とは「労働に充実感や幸福感を感ずることができない労働であること」を意味する。
存在こそが意識を規定するという唯物論の支配する世界では、心理的側面は経済的側面によって規定され、後者を変えないかぎり、前者も変わらないというのがマルクスの主張だ。
この理屈で言えば、資本主義経済においてはすべての労働者は疎外感から解放されないということにならざるを得ないだろう。
しかしながら、現代の資本主義社会、特にここ数年間においてはその原則が当てはまらなくなってきているように思う。そのような疎外された労働が必然的に疎外感を生むかどうかは甚だ疑問だからだ。
例えばYoutuber、TickTocker、オンラインサロン経営者などなど、最近こういった新しい業種の人と話す機会が増えたように思う。ひと昔前はこのような職業は存在していなかったし、私の理解が追いつけない職業で成功した起業家は他にもどんどん出てくる。
こうした新しいタイプの起業家たちと話していると、自然と私も時代のトレンドを把握できるし、何よりビジネスモデルが刺激的だ。彼ら/彼女たちに話を聞いてみると、ファンに仕事をさせて、おまけにお金までせしめるらしい(笑)
特にオンラインサロンはサブスク課金型(毎月会費が入ってくるような仕組み)なので、顧客は会費を支払う代わりに、仕事も引き受けてくれるのだ。これは一種のブランドマーケティングの成功例だが、ファンはその人(有名人・著名人)と一緒に仕事をすること自体に価値を見出し、その人の仕事に携われることに喜びを感じるのだという。
まさにトム・ソーヤのペンキ塗りの発想と一緒で、労働する権利が一種の商品価値を持っており、消費者参加型ビジネスが見事に成立している点が非常に興味深い。
このように現代では、労働の意味するところが変わってきているように思う。また、それに伴い、「お金」や「賃金」、ひいては「働き方」そのものに対する価値観も変わってきているのではないだろうか。
***
【お金の価値は確実に低下している】
伝統的な経済学の考え方に基づけば、本来お金とは「交換価値」そのものから始まった。
お金の対価として商品(有形財)やサービス(無形財)を交換する世の中では、お金がなければ何も手に入らないし、何もできないのが当然だった。だから欲しいものがあれば、私たちはお金を増やすしか選択肢がなかった。
ところが、シェアリング・エコノミー(共有経済)の普及により、今はそこまで多くのお金がなくたって、商品やサービスはひと昔前と比べれば手に入れやすくなったし、それは言い換えれば、交換価値を独占していたはずのお金は、次第にその地位が低下してきたともいえる。
カーシェアリングサービスを使えば、私たちは自分で車を所有することなく、使いたい時に誰かが駐車場に停めてある車を時間単位で共有することができる。GrabやUberなどの配車サービスのアプリを使えば1クリックで車を呼び出して、そのまま指定した目的地まで運んでくれる。
あなたの住んでいる住居だってルームシェアハウスに引っ越せば、独り暮らしをするよりも家賃をずっと安く抑えられるだろう。
ちょっと背伸びをしてブラフ(ハッタリ)をかましたい時は、パーティーに行く前に高そうなブランド品のバッグを借りて、後でこっそりと返却することだってできる。
友人と一緒に旅行に行くときは、AirBnBのアプリで豪華な別荘を予約すればいい。もはやリゾート会員権は時代遅れだ。たとえば1泊20万円する豪邸だって、友人5人で予約すれば一人4万円で王様気分になれる、あとはInstagramやFacebookにリア充してますよというアピール写真を投稿すれば作業完了だ。1泊4万円の宿泊費が高いか安いかは人によるが、ちょっと贅沢すれば届く範囲ではある。
ひと昔前、私たちは「おカネを稼ぎ、おカネを貯めて、モノを買って所有する」ことが常識であった。一方で、現在私たちが暮らしている社会は、「必要なときにモノを借りて、不要になったら返却する」という、いわば間接所有の価値観に移行しつつあるように思う。
これを会計学の概念で表せば、固定費(モノを買って所有)から変動費(モノを借りて不要になったら返す)へバランスシートの大幅シフトが起こっているということになるだろう。
このように20世紀がモノを所有する「独占の時代」だったと定義するならば、今私たちが生きている21世紀は「共有の時代」と言えるのかもしれない。
必要なものは必要な時に不要な人から手に入れる、そして不要になったら返すか、次に必要としている人に譲渡する。それが現代社会のスマートな生き方だ。日本のサービスでいえばメルカリやヤフオクがこれに当てはまるだろう。
かつてはお金がある人のところに情報が集まり、権力が集中していた。中世ヨーロッパであれば生活の中心はいつも教会だったし、中央集権的な象徴である教会は絶対的な権力を持っていたはずだ。
それが20世紀になると、教会に変わってマスメディアが権力を持つようになり、私たち一般庶民は彼らの印象操作によって作られた情報を一方的に浴び続け、それを物事の判断基準とするしかなかった。
ところが、21世紀初頭、インターネットの登場により双方向通信のマルチメディア社会が到来、情報が民主化の方向へ進み、お金持ちもそうでない人も大量の情報を瞬時にパソコンやスマホから得られるようになった。
その意味で、インターネットの登場は-誤解を恐れずに言えば-、反体制的な革命だったといえるだろう。それはマスコミ一辺倒による情報の独占状態を切り崩し、情報の民主化を成し遂げたのだから。
今はひと昔前に比べてお金がそれほどいらなくなる時代になりつつあるし、あるいはTwitterやInstagramなどSNSのフォロワー数そのものが資産価値を持ちはじめ、それ自体が財産となる時代に移行しつつあるのかもしれない。
それは言い換えれば、情報そのものがお金や権力を集めてくる時代であり、情報自体が面白ければお金や権力がなくてもあっという間にSNSでフォロワーによって拡散する。今やSNSのフォロワーを多く持っている人が一種の信用創造の主体となりつつある。
ダイヤルアップ回線しかなかった時代、パソコンやインターネットがここまで普及し、ひいてはスマホ1台で何でもできる時代が来るなんて誰が想像できただろうか?
お金の価値は私たちが気づかないうちに確実に低下している、それはお金に代わる様々な交換価値が出現したことによるものであり、私たちがそれまで持っていた既存の価値観を揺さぶりつつあるのだ。
【堕落する労働者たち~スキルシェアリングがもたらす未来~】
クラウドソーシング(=Crowd(群衆)とSourcing(業務委託)を組み合わせた造語)と同様の概念であるが、「スキルシェアリング」という何とも革新的なサービスがある。これは、個人がもつ専門的な知識や技術、いわゆるスキルをインターネット上で商品のように売買できるサービスのことをいう。
このサービスの本質は個々の持つスキルと時間の切り売りであり、ゆえに「お金を払って、時間を買う人」と「時間を売って、お金をもらう人」との間でマッチングが行われ、市場取引が成立する。
例えばあなたはとても忙しいビジネスパーソンだとしよう、1分1秒でも無駄な作業を減らして本業に集中したいとする。
商品やサービスを開発して利益を上げることに集中したいあなたは、効率を最優先して非生産的な時間を少しでも削減したいと思うはずだ。
デスクの前でひたすら集中して仕事がしたいあなたは、わざわざ外食に行くのが億劫になるかもしれない。Grab FoodやUber Eatsのアプリをダウンロードして、食べたいものを注文しよう。時間が空いているドライバーさんが登録しているから、あなたに代わって食べ物や飲み物を運んでくれるだろう。
yudypon@yudypon激動の1日が終わった、久々に仕事しながら誰かに食べ物を口に入れてもらったわ笑笑
2021/10/04 19:50:52
プロレタリアート病はこのくらい働かないと満足できません😂
#仕事病 #プロレタリアート
いちいち売れた商品をリスト化して帳簿を作成するのが面倒くさければ、集計や経理が得意な人をスキルシェアのマッチングサイトで探せば、すぐに仕事を手伝ってくれる人を見つけ出すことができる。
仮に、商品やサービスの売り方がわからなければ、営業が得意な人をスキルシェアのマッチングサイトで探せば、すぐに販売を手伝ってくれる人を見つけ出すことができる。
さらには、商品やサービスの作り方がわからなければ、商品開発が得意な人をスキルシェアのマッチングサイトで探せば、すぐに開発を手伝ってくれる人を見つけ出すことができる。
スキルシェアは非常に素晴らしいサービスだ、このサービスを有効活用したあなたは負担が減り、少しばかり余裕ができた。あなたには商品やサービスを代わりに作ってくれる人がいて、商品やサービスを代わりに売ってくれる人がいて、集計や経理を代わりにやってくれる人がいて、あなたは管理だけをすればいい。
あなたはやがて管理すらも面倒に感じるようになるかもしれない。今度は管理が得意な人をスキルシェアのマッチングサイトで探せば、すぐにあなたに代わる管理者を見つけ出すことができる。これであなたは自由の身だ。
晴れてあなたは自由な時間とそれなりのお金が入ってくるようになった。スキルシェアを極めようと思えば、努力せずとも無駄な作業をどんどん誰かに任せ、非生産的な時間を短縮できることを遂に発見したのだ!
しかし、ここで思考を停止せずによく考えてみてほしい。この話は何かがおかしい。
このサービスには致命的なパラドクスがあって、「全員が誰かに仕事を委託する」という前提に立つと、どこかのタイミングで誰もが努力をしなくなる日がやってくる。スキルシェアを極めるということは、裏を返せばスキルを習得する行為や努力を放棄することである。そして結果として私たち人類は退化する。
だってどう考えてもおかしいじゃないか(笑)
はじめから帳簿管理ができず、商品の売り方がわからず、商品の作り方もわからず、自分で工夫して努力することを一切せず、業務管理を放棄するようなビジネスパーソンがたくさんできてしまったら、それは早かれ遅かれ社会全体がおかしくなってしまうだろう。
誰かの力を必要以上に借り過ぎてしまうと、実は全員が誰かに依存するようになり、結果としてその合成期待値はマイナスリターンをもたらす、という恐ろしい結末が待っているようにも思う。
もっとも、私はスキルシェアという概念を否定しているわけではない、むしろ肯定的だ。仕事は一人で小さく初めても、ずっと続けていくと、ある一定の規模に達した後、自分だけではどうにもならなくなるタイミングがやってくる。
その時に一緒に仕事をしてくれる仲間(それは共同経営者や従業員、外注先など)とチームで仕事をしていくのと、やっていることの本質は同じなのだから。ようは本業以外のこと、面倒くさいことを、それを好きな人に任せる。その考え方には賛成だ。
だけど心配ない、もうすぐ人類は働かなくなる生き物(狩りをしない動物)になる日が来るかもしれない。堕落した私たち労働者(プロレタリア)に代わって、機械が代わりに仕事を引き受けてくれる。
...かもしれない。
***
【仕事を奪われる労働者たち~シンギュレーション~】
労働者と機械の関係が根本的に変化する時代、機械とは労働者の生産性を向上させるための道具である。
しかし近い将来、機械が労働者そのものへと変わろうとし、労働者の能力とテクノロジーの進化による人間と機械との逆転現象(シンギュレーション)は2049年頃までに起こると言われている。
機械が代わりに仕事を引き受けてくれるということは、裏を返せば機械が人間から仕事をどんどん奪っていくことを意味する。
機械が人間から仕事をどんどん奪っていくということは、それだけ多くの人間が収入を得られなくなることを意味する。
AIやロボットの能力が人間に近づくにつれ、毎年様々な仕事に就いている人類が順番に収入を失うからだ。
yudypon@yudypon自分で作ったAIロボットと勝負してるんだけど、強すぎて絶対に勝てないわ😂
2020/05/16 02:02:46
#AI #人口知能 #ディープラーニング #チェス #デイトレード
そこに訪れるのは、これまで想像もできなかったような社会の姿であり、人々の生き方ではなかろうか。21世紀前半の現在に生きる私たち人類は、ちょうどそれに向けた大きな転換期の始まりの時代を生きているのだと考えることができる。
そして国の中に収入を得られない人、収入が減る人の数が大幅に増えればデフレが起こった大不況になる。仕事の消滅は最終的にディストピア(破滅的な未来)をもたらすだろう。
さて、私たちの前にはどちらの未来がやってくるのだろうか?
***
近年、先進国ではベーシックインカム(Basic Income)をめぐる議論が活発に行われている。ベーシックインカムとは、社会的な地位や所得水準の違い、年齢、性別に関係なく、全ての人に対する所得保障として、「一定金額の現金を支給する制度」のことをいう。
国民国家がこれからも継続するという条件において、-それは財源をどうするかなど複雑な議論はあるにせよ-、この制度が導入された場合、私たちは少なくとも必要最低限の生活が保障され、「労働の放棄」という選択肢が与えられることになる。
・もし働かなくても生活できるとしたら、それでもあなたは働くのか?
・もし働かなくても生活できるとしたら、あなたは何のために働くのか?
いったい労働の対価として得る報酬とは何なのか、また私たちは何のために働くのか、これらの問いに対する回答はみんな違うだろう。
そろそろ、労働することの意味について、私たちは真剣に考える時が来たのかもしれない。
このテーマについては、またいずれ続きを書きたい。
***
(参考: 木原武一 (著)『ぼくたちのマルクス』筑摩書房、1995年)
(参考: 松本大 (著)『お金の正体』宝島社、2019年)
(参考: 鈴木貴博 (著)『仕事消滅~AIの時代を生き抜くために、いま私たちにできること~』講談社+α新書、2017年)
(参考: 堀江貴文 (著)『多動力』幻冬舎、2018年)