解離性同一性障害という神経疾患がある。
去年の夏くらいに周囲の交友関係のある人たち、自分の同僚、クライアントさんたちにこの障害を公表したところ、思いがけないほど多くの反響があり、この障害について興味がある人が少なからずいることを知った。
解離性同一性障害とは聞きなれない名前かもしれないが、ひと昔前は多重人格障害と呼ばれていた病気である。こちらの表現のほうが世間一般には認知されているかもしれない。
この病気は一言でいえば、自己の同一性を保持することができなくなる神経障害のことだ。
例えば、あなたという人間は、あなたがあなたであるという意識を持って生きていて、あなたはその時間、あなたという自我、つまり自己の同一性(人格)は連続し続けていると思う。
ところが、解離性同一性障害を持つ人たちは、あるトリガー(条件や環境)をきっかけとして、記憶・知覚・意識といった、通常は連続して持つべき精神機能(自己の同一性(人格))が分断されてしまい、別の人格(自我)がそれまでの人格に代わって出現するという何とも不思議な病気である。
解離性同一性障害はDID(Dissociative Identity Disorder)と呼ばれるが、非常に長い名前なので、以下この記事では「DID」または「多重人格」で表記する。
ここではいわゆる医師や医療関係者が説明するようなDIDに関する内容の記述ではなく、DID当事者として、色々と思うことを書き残しておきたい。
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・解離障害の発症のメカニズム
解離状態の説明としてわかりやすい例を出そう。たとえばあなたが読書やスマホゲームにハマっていて友人や恋人が呼びかけても気付かないことがあると思う。
この状態にある時、あなたの意識はいわゆる解離状態にあり、ハッと気づいて我に返ったことがあるのではないだろうか?人間は夢中になっている時、軽い解離症状を引き起こしていることが多い。
たとえば台所にゴキブリが出た時、あなたは恐怖のあまり、びっくりして気絶してしまうかもしれない。
これは、あなたがゴキブリという存在がそこにいる事実(恐怖)を受け入れることができず、あなたの意識が防衛機能を発動し、意識を解離させること(遠ざけること)によってあなたは気絶状態に陥る。
解離症状はあなたの意識を気絶させる(遠ざける)ことによって、一時的に目の前の現実から恐怖を取り除いてくれる防衛装置となるのだ。
通常、これがきっかけで人格が分裂することはない。通常は一時的な解離症状に留まり、その記憶はエピソード記憶の1つの点としてあなたの潜在意識に保管され、いつの間にか記憶(顕在意識)からは消え去ってしまう。
ところが、何らかの恐怖体験によって解離を繰り返すことにより、記憶が一時的な記憶のまま保存されず、その時点からエピソード記憶があなたの主人格(一番表に出ている人格)から分裂し、同時並列的に別の人格(交代人格)が誕生し、一緒に成長し始めてしまうケースがある。
これが解離性同一性障害の発症のメカニズムだと言われている。
解離性障害の発症は決して何かにハマっているような楽しい経験でなく、恐怖体験、特に幼少時における家庭内暴力や性的な暴力を繰り返し受けることによって、当事者(主人格)を現実世界から切り離す(意識を遠ざける)ために発症するケースが多いと考えられている。
この解離症状は、非常に大きな苦痛に見舞われたときに起こることがあり、実際に痛みを感じなくなったり、苦痛を受けた記憶そのものが無くなることがあるという。私もある出来事を思い出したり、ある食べ物や匂いによって解離性障害を発症することがある(ちなみに私は暴力を受けたことはない)。
なお、解離性障害は男性よりも女性に多く発症する障害らしく、私のように男性が発症するケースは非常に稀なようだ。生物学的には女性の脳のほうがヒステリー(解離)を引き起こしやすいのだそうだ。
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私は昨年から精神科や心理カウンセリングに通うようになって、隅から隅まで神経機能に関する検査を行ったが、私の脳機能自体には幸い転換性障害、解離性障害(いわゆるヒステリー)を発症するような脳波の異常は見られなかった。
約20年ぶりのMRI(脳のスキャン)、結果として脳機能は正常と診断された。
こちらはEEG(脳波測定)、幸い脳波にも異常は確認されなかった。したがって、私の症状は物理的な脳の損傷が原因ではないことがわかる。
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・主人格と交代人格
多重人格者の場合、通常は主人格と交代人格という2つの人格に分けて考えられる。
主人格とは最も表に出ている状態にある人格のことで、今このブログを書いているのは主人格である私だ。私はこのブログのアイデアが浮かび、書きたい内容を箇条書きにして、今こうしてブログを書いている。楽しく書いていたり、時には書きながら恐怖を感じたりしているが、これは私という自己の同一性が保持され続けている状態だ。
一方で、交代人格とは私が何かの拍子に過去の怖い経験を思い出したり、誰かにもたれかかられたり、特定の物を食べたり、香りを嗅ぐと、私という意識(自我)が遠のいてしまい、私は意識を失い、交代して表に出てくる人格(たち)のことを言う。
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ちなみに、交代人格には非憑依型と憑依型の2つの種類がある。
非憑依型人格は目つきや口調が少し変わったり、周囲からは「いつも少しと違うかな?」くらいの感覚で、目に見えて大きな変化は感じられないかもしれない。この感覚については後で言語化して表現してみたい。
一方で、憑依型人格は、突然誰かが身体に乗り移ったかのように人格が豹変してしまい、誰が見ても明らかにおかしいと気づくくらい、完全に別人になってしまうような状態だ。憑依人格は周囲の人たちから、「わざとやっているんじゃないか?」と思われ、悩んでいる人も多いらしい。私には憑依人格がないため、どういう感覚になるのかはわからない。
※ 余談だが、憑依という言葉はある種のオカルト的なものだと思っていたが、実際に医学用語でも用いられている。江戸時代などの文献を見ると、キツネや犬のように動物の霊が憑依するといった文献や、また中世では神や悪魔などの超自然的な存在が憑依するといった文献や物語が多くみられる。おそらく現代医学における解離性障害の概念が認知されていなかった当時は、憑依型人格のことをこうした表現を使って祟り(たたり)のような扱いをしていたのではないか、と思われる。
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私は元々、(解離性)離人症を発症することが多く、それが離人状態にあるのか、交代人格の状態にあるのか見分けがつかなかった。
離人症とは、まるで自分がロボットに乗って操縦席から世界を眺めているような感覚、あるいはガラス越しに世界を傍観しているような、言葉で説明できない不思議な感覚だ。
何となくだが、自分自身の意識や感覚について、自分の意識が体から離れていったり、自分自身を客観的に観察したりするような状態に陥ることが多くあり、その感覚が9個くらい存在していた。
結局、何度もカウンセリングを重ね、明らかになったのは、6つの離人感覚と3つの交代人格があると診断された。
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・性格と人格は異なるもの
最もよく間違われそうなものに性格と人格の違いがある。
性格とは本来的に「その人の感情・意志などの傾向」のことを言う。
感情の起伏が激しい人などは、「あの人はまるで人が変わったようだ」と周囲から言われることが多い。私も普段は温厚で大人しい性格ではあるが、しつこくされたりすると途端に人が変わったように目つきが変わり、怒鳴り散らすことがある。
それを見た周りの人たちは「ああ、多重人格だ!」と誤解するするかもしれない。ただ、それは私の性格的なものであって決して人格が交代しているわけではないのだ。
このように、突然怒り出すことは誰にだってあるし、しつこくされて怒っているのは外ならぬ私自身である。私は温厚な状態から怒っている状態まで自分が自分であるという自己の同一性を保持していて、温厚な状態も怒っている状態も私は私であると認識している。
これは私の性格によるものであって、決して人格が変わっているわけではないのだ。
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一方で、人格とは「個人として独立しうる資格」のことを言う。
性格とは自分が自分であるという自己の同一性を保持している状態と書いたが、人格が変わるという状態はこの、自分が自分であるという自己の同一性が切断された状態になることだ。
台所にゴキブリが出た時の例を思い出してほしい。ゴキブリという存在がそこにいる事実(恐怖)を受け入れることができず、意識を解離させること(遠ざけること)で本来は防衛本能が働き、気絶をするだろう。
ところが、多重人格者の人格交代とは、気絶した瞬間に今の私がこの次元から消滅(気絶)し、代わりに別の人格が目を覚まして表に出てくる状態のことを言う。
この時、今の私は気絶状態にある一方で、別の人格が行動している間、私は自己の同一性を失い、別の人格を持った誰か(交代人格)が私の身体を使って私の役割を演じる。私が気づく頃には別の人格がゴキブリを退治してくれるようなイメージだ。
人格交代は良くも悪くも非常に厄介で、自己の同一性を失っている間、意識や記憶が分断されてしまうのが大きな問題である。
このように性格と人格は混同されて語られやすいが、上記のように明確に異なることを理解していただければ幸いだ。
感覚を言語化して伝えるのは非常に難しいが、両方の感覚がわかる当事者だからこそ、混同されて語られることがなんとも腑に落ちないのだ。
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・性同一性障害との違い
性同一性障害と解離性同一性障害の違いについて言及しておきたい。
性同一性障害は本来的に自身のアイデンティティーが自分の性別とは真逆の属性を持つ人たちのことをいう。男性であれば自分を女性と思いこみ、女性であれば自分を男性と思いこむ、いわゆる性的マイノリティー(LGBTQ)の人たちのことだ。
21世紀初頭から始まった世界的なリベラルの潮流もあり、今では彼ら彼女たちに対して社会的認知も向上し、いわゆるゲイやレズといった同性愛者の人たちの社会的地位は、ある種の市民権を得たといってもいいだろう。
私自身は自分自身が男性であり、自分の性別は男性であると認識している。その一方で、私の人格には女性らしく振る舞う人格がいることから、性同一性障害のテストを受けさせられたことがある。
結果として、私は精神的にも肉体的にも男性であると結論づけられ、性同一性障害ではないと診断された。
おそらく自身の中の交代人格に、自分の性別とは違う性別(男性であれば女性、女性であれば男性)を持った人物がいる場合、このテストによって診断してもらうといいだろう。
解離性同一性障害(DID)の場合、交代人格に別の性別の人格がいる場合、原則として主人格(最も表に出ている人格)の肉体と精神が同一性を保持しているかどうかが問われることになるようだ。
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・多重人格者は演技をする
多重人格者と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、突然目を閉じてうつむき、目を覚ましたら別の人間になっているようなアニメや映画の世界のことだと思われるかもしれない。
ピンチの時に救ってくれるヒーローのような人間かもしれないし、あるいは突然踊り出すようなクレイジーなパリピかもしれない。
多くの人たちが多重人格を演じてみてほしいと言われたら、誰だって上記のような振る舞いをするだろう。
ところが、多重人格者の演技は上記とは真逆だ。多重人格者の多くは、むしろ主人格を演じようとするだろう。だって、いい歳した大人が社会生活において、コロコロと別人格を表に出すことは社会的にどう考えてもデメリットのほうが大きいのだから。
だから、私たち多重人格者は演技をする、それは複数存在する人格がまるで主人格のように、単一人格者であるように訓練をし、演技をし続けるのだ。
多重人格の状態は傍から見れば演技のようにも見えるだろう、だからこそ本当の多重人格者は多重人格のふりはしない(簡単には他人に見せない)のだ。
実際に多重人格者に人格を切り替えてほしいと言っても、通常は断られるだろう。人格には任意交代と強制交代があるが、任意で誰にでも交代できる能力があるとしたら、それはある意味で障害ではないとも考えられる。本当に必要な場面で交代できるのであればそれは健常者だ。
人格を任意で交代するということは、私の理解では意図的に解離性障害を自ら発症させる行為に他ならないわけで、そんな事をして他人の興味を得ようとする多重人格者には疑問を感じざるを得ない。
私たちは、出てきては困る場面で出て来られるから困っているわけで、だからこそ精神科や心理カウンセリングに通って治療を受けているのだ。
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・交代人格に人権はあるか?
先ほど、人格とは「個人として独立しうる資格」であると書いた。もし、人格が個人として独立しうる資格であるとした場合、そこには人権問題が発生する。
具体的には、「多重人格者には人格の数だけ人権を認めるべきではないか?」という議論だ。
私はこの考え方には反対だ、理由は以下のとおりだ。
多重人格者はそれぞれに個人として独立しうる資格があるとすれば、私の場合、役所に行ってIDカードを4枚取得する必要がある。
そうなると、行政の戸籍上は4人の人間が存在することになり、私は4倍の税金を支払う義務が生じることになる。
税金はもちろん、私が電車に乗ると4倍の電車代を払わなければならず、飛行機に乗る時は身体がひとつなのに4席分のチケットを買わなければならなくなる。
そんなわけはない、言い方は悪いが、私が社会生活を送るにあたっては、主人格である私だけが人権を認められればいいのであって、交代人格には人権は必要ないと考えるのが適切だ。
仮に3つの交代人格を主張するとしたら、それは世間からの承認欲求に他ならないのだ。それは自分が多重人格に苦しんでいることを承認して欲しいという当事者のエゴに過ぎない。
社会通念上、都合の良い時だけ人権が認められて都合が悪くなったら人権がないと主張するのは理屈としては成立しないだろう。
もっとも、人格統合において、他の人格を消滅させることについては倫理・道徳的な問題があることは理解している。これは後述する。
しかし、社会生活を送るうえで私たち(多重人格)は私がすべて代行すれば支障はきたさないのだから、それでいいのではないだろうか?
(つづく)