あの日からずっと考え続けている。
「私はいったい誰なのか?」
「私の中にいる私たちはいったい誰なのか?」
意識とは、言うまでもなく記憶の連続保管機能の役割を果たしている。
連続した記憶は意識となり、意識の連続はやがて自我となり、それは私たちの人格を形成する大切な役割を果たす。
それにもかかわらず、私はどういうわけか時々記憶が分断してしまい、別の人格が私にとって代わり、私とは違う意識で私の役割を演じている。
考えれば考えるほど、私の思考は果てしない螺旋階段の渦に飲み込まれていく。
私はたしかにあの日、自分の目の前に小さな自分が現れ、―自由意思ではなく―、まるで操り人形のように彼に導かれ、黄金色の階段を降り、夢の中に吸い込まれていった。
連続した記憶は意識となり、意識の連続はやがて自我となり、それは私たちの人格を形成する大切な役割を果たす。
それにもかかわらず、私はどういうわけか時々記憶が分断してしまい、別の人格が私にとって代わり、私とは違う意識で私の役割を演じている。
考えれば考えるほど、私の思考は果てしない螺旋階段の渦に飲み込まれていく。
私はたしかにあの日、自分の目の前に小さな自分が現れ、―自由意思ではなく―、まるで操り人形のように彼に導かれ、黄金色の階段を降り、夢の中に吸い込まれていった。
(参考:【精神異常⑤~デジャブ体験とタイムトラベル~】)
子どもの頃に見た夢は、あの頃感じた恐怖を私の脳内に投影し、気がつけば私はあの夢の中にいた。しかし、それは夢ではなく紛れもない現実世界だった。
私がかつて夢で見た場所、子どもの頃に住んでいた夢の中の空間は、距離にして日本から5,200km以上、時間にして約35年も先にある未来の現実世界だ。
しかし、私の意識はすでにあの時、あの場所を訪れ、あの出来事を体験することを予め決定していた、それは今までの私の人生に自由意思はなかったと確信した瞬間でもあった。
あの日、あの夢をきっかけに、私の自我はボンヤリと少しずつ分岐していき、再び見たあの夢をきっかけに、今度は私の自我はボンヤリと統合しかけている。
それでは、今までの私の人生は、いったい何だったのだろうか?
私が私であるという意識、その自我について考えてみたい。
***
【意識とは何か?】
一般的に意識とは、人間の行動を決めている高次元な存在、意思判断の最終決定機関であると考えられている。
私という存在は、私の意識が支配している。
さて、本当だろうか?
さて、本当だろうか?
実は私たちが考えている常識のほうが間違っているかもしれない。
慶應大学の前野教授によって提唱された考え方である『受動意識仮説』というものがある。
それは、私たちの意識は、脳の活動の結果生みだされた「受動的な幻想」であるにすぎないというものだ。
*
受動意識仮説
私たちは普段、日常生活の中で活動し、普通に生活していても膨大な情報を脳が受け取り、処理をしている。
それらは私たちの意識の中で処理され、情報が統合されていき、その結果、私たちは一貫して連続した意識を持つことができている。これは一般的に言われている意識の捉え方だ。
これに対して受動意識仮説では、あらゆる情報処理は、すべて意識とは無関係に処理され、無意識の中で情報処理が行われているという仮説だ。
すなわち、意識とはその処理結果のうち、特定のものだけを選び、後から観測しているに過ぎないということになる。
すなわち、意識とはその処理結果のうち、特定のものだけを選び、後から観測しているに過ぎないということになる。
私たちの脳は無意識(脳の中にいる小人たち)で行われる処理のうち、強く反応した処理結果のみを後から観測しているに過ぎない。
当然ながら、私たちの意識は脳内でそんなことが起こっていることなど知る由もない。
だから、私たちの意識はあたかも自らがそう思ったかのように、まるで自分がそれを体験していたかのように錯覚してしまう。
つまり、私たちは自分自身では何もしておらず、実は私たちの意識は、1テンポ遅れでそれを認識するだけの、ただの観測者だったということになる。
だから、私たちの意識はあたかも自らがそう思ったかのように、まるで自分がそれを体験していたかのように錯覚してしまう。
つまり、私たちは自分自身では何もしておらず、実は私たちの意識は、1テンポ遅れでそれを認識するだけの、ただの観測者だったということになる。
*
意識の正体とは?
ここである疑問が生まれる。
結局、すべての情報処理が無意識下で行われているとしたら、「意識はいったい何のためにあるのだろうか?」、ようするに「人間に意識など必要ないのではないか?」と。
結局、すべての情報処理が無意識下で行われているとしたら、「意識はいったい何のためにあるのだろうか?」、ようするに「人間に意識など必要ないのではないか?」と。
これについて、受動意識仮説では「エピソード記憶」が関連していると説明する。
エピソード記憶とは「いつ、どこで、だれと、なにをした?」といった個人的な経験、あるいは思い入れのある事柄などをさす。
エピソード記憶ができるのは、人間を含む一部の生物だけのようだ。エピソード記憶は、個人的な記憶や思い出の記憶であるため、そこには当然ながら「私」という主体を必要とする。
エピソード記憶ができるのは、人間を含む一部の生物だけのようだ。エピソード記憶は、個人的な記憶や思い出の記憶であるため、そこには当然ながら「私」という主体を必要とする。
私たちは日々、多くの経験をし、その多くはその場で意識にあがらず、無意識に行動を取っている。したがって、これはエピソード記憶にはなり得ない。
しかし、無数の情報の出力結果の中から特定の出来事が選ばれ、主体を持って体験したものはエピソード記憶となり得る。
これらの出来事を観測してエピソード記憶にもっていくもの、これこそが私たち「意識」の正体ではないか?と考えられている。
つまり「自分」という意識は、「私」という物語を記録し続けた結果、まるで私が自分であるかのように錯覚してしまっているということだ。
なるほど、たしかにそう考えれば、私とは幻想だったのかと腑に落ちる。
***
リベットの実験~自由意思の否定~
しかし、これだけでは納得がいかない。
なぜなら私たちには意識の他に、自らの「意思」があるからだ。
これは紛れもなく私という存在が体に命令を出して行動させているようにも見える。
では、やはり私という意識は存在するのではないか?
しかし、この意思の存在すらも否定する実験結果がある。
アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット氏は、私たちが自分の意思で指を曲げるときに、
①「指を曲げようと意図するタイミング」
↓
②「脳に信号が発生するタイミング」
↓
③「指が動くタイミング」
それぞれがどういう順番で起こるのかを調べる実験を行った。
***
リベットの実験~自由意思の否定~
しかし、これだけでは納得がいかない。
なぜなら私たちには意識の他に、自らの「意思」があるからだ。
これは紛れもなく私という存在が体に命令を出して行動させているようにも見える。
では、やはり私という意識は存在するのではないか?
しかし、この意思の存在すらも否定する実験結果がある。
アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット氏は、私たちが自分の意思で指を曲げるときに、
①「指を曲げようと意図するタイミング」
↓
②「脳に信号が発生するタイミング」
↓
③「指が動くタイミング」
それぞれがどういう順番で起こるのかを調べる実験を行った。
実験方法はまず、被験者の脳に電極を指し、脳の電気信号を読み取れる状態にする。
その状態で被験者に丸の中を移動する点を見てもらいながら、自分の意思で指を曲げてもらう。
そして被験者が指を曲げようと意図したときに、〇がどこにあったのかを後で申告してもらうというものだ。
多くの人が予想するのはおそらく、以下のようなものだろう。
①「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」
↓
②「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」
↓
③「行動する―指が動き始める―」
①「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」
↓
(0.35秒後)
↓
②「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」
↓
(0.2秒後)
↓
③「行動する―指が動き始める―」
つまり、この実験からわかることは、私たちが何かをしようと決める前に、すでに頭の中で決定がなされていて、その決定を後から私という意識が確認しているということを示唆している。
画像引用:「自由意志の三要件と脳科学との関係 -John―Dylan Haynesの研究を中心として(上)」
これにより意識とは、私たちが思うような絶対的な意思の決定機関ではなく、ただの脳の観察者にすぎないことが明らかになったのだ。
このことから、意識とはただ単に脳の処理結果を観察しているだけのシンプルな存在だといえる。
この結果は、現在科学技術の分野で研究が進んでいる人工知能に意識を宿らせるための大きなヒントになるかもしれない。
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【意識はどこにある?】
画像引用:「自由意志の三要件と脳科学との関係 -John―Dylan Haynesの研究を中心として(上)」
これにより意識とは、私たちが思うような絶対的な意思の決定機関ではなく、ただの脳の観察者にすぎないことが明らかになったのだ。
このことから、意識とはただ単に脳の処理結果を観察しているだけのシンプルな存在だといえる。
この結果は、現在科学技術の分野で研究が進んでいる人工知能に意識を宿らせるための大きなヒントになるかもしれない。
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【意識はどこにある?】
東大の薬学系研究科の池谷教授はいう。
科学で自我や意識を解き明かそうとすること自体、大きな勘違いかもしれません。
脳研究が進歩して、脳の機能はある程度わかってきている。
しかし、自我の機能を担当する場所はまだよくわかっていないのが現状だ。私たちは自我を強固な存在だと思い込んでいるが、実は、とても脆弱なものであるということだ。
たとえば、寝ている間、夢を見ていない時は、自我は消えている。また、麻酔にかかっている時も、私たちから意識が消失している状態だ。つまり、―逆説的だが―、麻酔薬の作用する場所を見つければ、私たちの自我や意識をつくり出す場所を発見できるのではないか、と真剣に考えている研究者もいる。
麻酔薬は脳のどこに作用して意識をなくしているのか、実は未だによくわかっていないそうだ。動物実験や臨床実験などを繰り返し、安全性に問題がないから使っているだけで、詳しい仕組みは不明である。
「なぜ効くのかよくわからないけど、いつもどおりこれを使おうか」
よく考えたらとんでもないことが、病院の手術室では日常的に行われていることになる。薬剤自体は化学物質であるため、化学構造式を見れば、薬剤ごとに特徴的な化学構造を発見することができるだろう。同じ症状に効く薬の化学構造式はどれもよく似ているため、薬品名を見なくても化学構造式を見れば何に作用する薬なのかわかるものも少なくない。
多くの人が、麻酔薬が作用するのは神経細胞だと思い込んでいるかもしれないが、実は麻酔薬を注入しても神経細胞は活動しているのだそうだ。麻酔薬で神経活動は止まらないのだ。
*
視覚系における情報処理に関する発見
*
よく考えたらとんでもないことが、病院の手術室では日常的に行われていることになる。薬剤自体は化学物質であるため、化学構造式を見れば、薬剤ごとに特徴的な化学構造を発見することができるだろう。同じ症状に効く薬の化学構造式はどれもよく似ているため、薬品名を見なくても化学構造式を見れば何に作用する薬なのかわかるものも少なくない。
一方で、麻酔薬(麻薬)も様々な種類のものが使われているが、化学構造式に共通の構造というものがない。このことからも、麻酔薬がいかに特殊な薬であるかがわかる。
数年前に、麻酔薬が作用しているのは神経細胞ではなく、グリア細胞(※中枢神経系を構成するニューロン(神経細胞)以外の細胞のこと、神経膠細胞とも呼ばれる)のアストロサイトではないかと主張する研究者が現れた。
画像引用:一般社団法人 日本生物物理学会「グリア細胞」
数年前に、麻酔薬が作用しているのは神経細胞ではなく、グリア細胞(※中枢神経系を構成するニューロン(神経細胞)以外の細胞のこと、神経膠細胞とも呼ばれる)のアストロサイトではないかと主張する研究者が現れた。
画像引用:一般社団法人 日本生物物理学会「グリア細胞」
多くの人が、麻酔薬が作用するのは神経細胞だと思い込んでいるかもしれないが、実は麻酔薬を注入しても神経細胞は活動しているのだそうだ。麻酔薬で神経活動は止まらないのだ。
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視覚系における情報処理に関する発見
有名な話では、1981年にノーベル医学•生理学賞を受賞したデイヴィッド•ヒューベルとトルステン•ウィーセルの実験がある。
2人がネコの脳の中で、視覚情報がどのように処理されているのかを解明した画期的な研究なのだが、実は当時の実験では、ネコには麻酔がかけられていた。
麻酔で意識がない状態にもかかわらず、実験では脳の中で視覚情報がどのように処理されているのか、そのしくみを解き明かすことができたのだ。
麻酔で意識がない状態にもかかわらず、実験では脳の中で視覚情報がどのように処理されているのか、そのしくみを解き明かすことができたのだ。
Nobel_bot@nobel_botノーベル医学・生理学賞(1981) デイヴィッド・ヒューベル(米(カナダ出身)) トルステン・ウィーセル(スウェーデン) 視覚系における情報処理に関する発見
2013/06/07 09:00:02
では、その麻酔下にあるネコは見えているのだろうか?少なくとも視覚野の神経細胞は、麻酔がかかっていても反応は停止しない。
ところが驚くことに、グリア細胞の反応は麻酔をかけると止まってしまうのだ。麻酔薬に敏感なのは、実は神経細胞ではなく、グリア細胞なのだ。
ところが驚くことに、グリア細胞の反応は麻酔をかけると止まってしまうのだ。麻酔薬に敏感なのは、実は神経細胞ではなく、グリア細胞なのだ。
こうしたことを根拠に、グリア細胞に意識があると考えている研究者もいるそうだ。
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時間は、物理時間と心理時間の2種類に分類される。
物理時間とは「この宇宙空間に流れているとされる時間のこと」、心理時間とは、「私たちが各々個体の中で感じる時間の流れのこと」をいう。
心理時間はあっという間に過ぎたり、ゆっくり過ぎたり、物理的な時間と必ずしも一致しない。通常、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦痛な時間は時間が経つのを遅く感じる。
ヒトの時間の認識は、記憶によって発展してきたと考えられている。私たちは時間の経過を、様々なものの変化によって見出している。もし世界がまったく変化しなかったら時間を感じることはできないだろう。
変化に気づくとは、違いを見つけ出す作業だ。それ以前の状態を「記憶」していないと、ものが変化したかどうかを判断することはできない。つまり、記憶がないと、時間の経過を感じることができないのだ。そして、ヒトは記憶を通じて 時間の概念を創造し、心理時間を感じるようになった。
たとえば言語は、過去・現在•未来を厳密に区別する時制を持っている。これは、ヒトの意識が時間、特に過去• 現在•未来の区別を重要なものと感じてきた証拠である。
変化に気づくとは、違いを見つけ出す作業だ。それ以前の状態を「記憶」していないと、ものが変化したかどうかを判断することはできない。つまり、記憶がないと、時間の経過を感じることができないのだ。そして、ヒトは記憶を通じて 時間の概念を創造し、心理時間を感じるようになった。
たとえば言語は、過去・現在•未来を厳密に区別する時制を持っている。これは、ヒトの意識が時間、特に過去• 現在•未来の区別を重要なものと感じてきた証拠である。
興味深いことに、世界には時制のない言語があるらしい。過去系や未来形は存在せず、現在系しかないのだそうだ。「今」こそがすべてという楽観的な考え方なのだろうか。
過去を振り返っても後悔しかない、未来のことを考えても不安しかない。実は「過去も未来もなく、今この瞬間が延々と存在しているだけなのだ」、とするアドラーの心理学な捉え方であり、私は個人的にはこの考え方が好きだ。
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過去を振り返っても後悔しかない、未来のことを考えても不安しかない。実は「過去も未来もなく、今この瞬間が延々と存在しているだけなのだ」、とするアドラーの心理学な捉え方であり、私は個人的にはこの考え方が好きだ。
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【この世界はホログラムによる仮想現実なのか?】
この世界がもし仮想現実(VR = Virtual Reality)だったとしたら?
テスラ社、SpaceX社のCEOであるイーロン・マスク氏によれば「この世界が仮想現実ではない確率は100万分の1であると」いい、天才物理学者の故スティーブン・ホーキング博士によれば、「この世界が仮想現実である確率は99%である」という。
この世界、そしてその中にいる自分は、いずれもホログラム映像に過ぎず、現実に実在しているわけではないのだという。この世界は、ソース(すべての源)という映写機によって映し出されている映像であり、それは幻想であり、ホログラム映像に過ぎないとするものだ。
したがって、この世界に在るものは全てが仮想現実であり、ある対象に自らが注意を向け続けるときだけ、そのものが存在するようになるということを意味する。
私たちが今いる空間、見ている景色は私たちが意識している時間だけ出現し、私たちが意識していない時間、認識していないものは、それらは存在していないようなものだ。
何とも意味不明だが、ゲームの世界に置き換えて考えてみたらいい。VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の遥かかなたにある空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。
あなたはニューヨークの自由の女神を見たことがあるだろうか?
あるいは、パリのエッフェル塔を見たことがあるだろうか?
今この瞬間、東京でこのブログを読んでいるあなたにとって、それらは存在していないのと同じことだ。
私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。
*
バートランド•ラッセルによる世界5分前仮説
あなたは「5分以上前の過去の記憶を持っている」と思うかもしれないが、あなたのその記億は実は5分前にどこかから移植されたものかもしれない。その記憶が、どれほど鮮明な現実味を伴っていたとしても、「そう実感されるように慎重に植え付けた」と説明されれば、もはや反論のしようもなくなってしまう。
その高性能なコンピュータは処理落ちを防ぐために、―シミュレーションゲームと同じような仕組みで―、それを見ていない間は存在しないものとして扱っているのだ。
もう一度言おう。
VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。
私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。
行ったことがあるから自由の女神やエッフェル塔が今この瞬間も存在しているわけではない。
私たちの脳は記憶に基づいて現状を把握することを常識としている、だけどもしこの世界の初期設定で自由の女神やエッフェル塔を設置し、あなたという人間に「自由の女神やエッフェル塔に行ったことがある」という設定をして5分前に誰かがゲームをスタートしてこの世界が始まったという説を、誰も否定ができない。
過去は今の積み重ねだというのは「仮想現実だと見破られないため」で、過去や思い出はただのデータ、つまりゲームの初期設定かもしれないというわけだ。
しかし、この世界がバーチャルゲームだったとしたならば、必ずどこかにバグが生じるはずだ。
*
デジャブ(既視感)は初期設定のバグであるという説
実はそのバグの正体こそがデジャブ(既視感)ではないかと言われている。デジャブ(既視感)とは一度も見たことがないのに、既に見たことがある気がする不思議な現象のことをいう。
私たちが住んでいる(と考えられる)このバーチャル世界で、予め設定されたシミュレーションどおりでなく、初期設定にないものを認識する機能である。
既視感=バグ説は映画マトリックスでも劇中に書かれており、仮想現実を再構築した時に発生するズレだと考えられている。
ようは私たちの人生をプログラミングした後で、退屈になって超高次元の能力を持った作成者がゲームの初期設定を突然変えてしまったようなものとイメージしてほしい。
私が体験したデジャブ(既視感)は想像を絶するほどの物語だった、あの経験がなければこのブログをこんなに深掘りして書くこともなかっただろうから。
あの日、私の過去のトラウマがキレイに1本の線でつながった。
デジャブ体験は、私の人生にとって非常に良い意味で大きな影響を与えることになった。
*
したがって、この世界に在るものは全てが仮想現実であり、ある対象に自らが注意を向け続けるときだけ、そのものが存在するようになるということを意味する。
私たちが今いる空間、見ている景色は私たちが意識している時間だけ出現し、私たちが意識していない時間、認識していないものは、それらは存在していないようなものだ。
何とも意味不明だが、ゲームの世界に置き換えて考えてみたらいい。VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の遥かかなたにある空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。
あなたはニューヨークの自由の女神を見たことがあるだろうか?
あるいは、パリのエッフェル塔を見たことがあるだろうか?
今この瞬間、東京でこのブログを読んでいるあなたにとって、それらは存在していないのと同じことだ。
私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。
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バートランド•ラッセルによる世界5分前仮説
哲学者のバートランド•ラッセル博士は「世界5分前仮説」を提唱した。
彼が主張したのは「この世界が5分前に始まったかもしれないという仮定を覆すことができるか?」というものだ。
これは奇妙な仮定のように聞こえるものの、実は私たちはこの仮定を確実に覆す手段を持っていない。なぜなら、自我もこの世界もすべて、個人の「記憶」に全面的に依存しているからだ。
彼が主張したのは「この世界が5分前に始まったかもしれないという仮定を覆すことができるか?」というものだ。
これは奇妙な仮定のように聞こえるものの、実は私たちはこの仮定を確実に覆す手段を持っていない。なぜなら、自我もこの世界もすべて、個人の「記憶」に全面的に依存しているからだ。
あなたは「5分以上前の過去の記憶を持っている」と思うかもしれないが、あなたのその記億は実は5分前にどこかから移植されたものかもしれない。その記憶が、どれほど鮮明な現実味を伴っていたとしても、「そう実感されるように慎重に植え付けた」と説明されれば、もはや反論のしようもなくなってしまう。
私たちの記憶は脳に刻み込まれていて、この世界を認識するのも、また脳である。ゆえに記憶を操作されてしまえば、5分前につくられた世界に何十年も住み続けていると思い込んでしまうことは、たしかに思考実験として矛盾は起きないのだ。
こうした単純な思考実験で、私たちが確固たるものとして信じている世界は、いともたやく揺らいでしまうくらい「私」は不確実な存在であるし、逆に、時間や自我がいかに記憶に依存しているかということを象徴しているともいえるだろう。
何者かが私たちの意識を初期設定し、例えば勉強が得意だとか、スポーツが得意だとか、もっと根本的に男女の設定やら数十年後に子どもが生まれるなどの設定をする。
設定を決めたらようやくゲームスタートだ。
「随分とリアリティーのあるゲームだ。そんなゲームがあるなら、ぜひプレイしてみたい」
そう思われたゲーマーの人も多いかもしれない。
しかし実は今、私たちは超高度な能力を持った何者かが初期設定をしたゲームの中にいる。私たちは仮想現実であるこの世界を快適に楽しむために、脳という高性能なコンピュータを使ってプレイしている。
こうした単純な思考実験で、私たちが確固たるものとして信じている世界は、いともたやく揺らいでしまうくらい「私」は不確実な存在であるし、逆に、時間や自我がいかに記憶に依存しているかということを象徴しているともいえるだろう。
何者かが私たちの意識を初期設定し、例えば勉強が得意だとか、スポーツが得意だとか、もっと根本的に男女の設定やら数十年後に子どもが生まれるなどの設定をする。
設定を決めたらようやくゲームスタートだ。
「随分とリアリティーのあるゲームだ。そんなゲームがあるなら、ぜひプレイしてみたい」
そう思われたゲーマーの人も多いかもしれない。
しかし実は今、私たちは超高度な能力を持った何者かが初期設定をしたゲームの中にいる。私たちは仮想現実であるこの世界を快適に楽しむために、脳という高性能なコンピュータを使ってプレイしている。
その高性能なコンピュータは処理落ちを防ぐために、―シミュレーションゲームと同じような仕組みで―、それを見ていない間は存在しないものとして扱っているのだ。
もう一度言おう。
VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。
私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。
行ったことがあるから自由の女神やエッフェル塔が今この瞬間も存在しているわけではない。
私たちの脳は記憶に基づいて現状を把握することを常識としている、だけどもしこの世界の初期設定で自由の女神やエッフェル塔を設置し、あなたという人間に「自由の女神やエッフェル塔に行ったことがある」という設定をして5分前に誰かがゲームをスタートしてこの世界が始まったという説を、誰も否定ができない。
過去は今の積み重ねだというのは「仮想現実だと見破られないため」で、過去や思い出はただのデータ、つまりゲームの初期設定かもしれないというわけだ。
しかし、この世界がバーチャルゲームだったとしたならば、必ずどこかにバグが生じるはずだ。
*
実はそのバグの正体こそがデジャブ(既視感)ではないかと言われている。デジャブ(既視感)とは一度も見たことがないのに、既に見たことがある気がする不思議な現象のことをいう。
私たちが住んでいる(と考えられる)このバーチャル世界で、予め設定されたシミュレーションどおりでなく、初期設定にないものを認識する機能である。
一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。
過去の体験は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は過去に実際に体験したという確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なる。デジャヴは神経の“通り道”が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因するものである。
(省略)
記憶喪失や夢などのギミックと組み合わせて、物語の伏線として利用されることもある。
既視感=バグ説は映画マトリックスでも劇中に書かれており、仮想現実を再構築した時に発生するズレだと考えられている。
ようは私たちの人生をプログラミングした後で、退屈になって超高次元の能力を持った作成者がゲームの初期設定を突然変えてしまったようなものとイメージしてほしい。
私が体験したデジャブ(既視感)は想像を絶するほどの物語だった、あの経験がなければこのブログをこんなに深掘りして書くこともなかっただろうから。
あの日、私の過去のトラウマがキレイに1本の線でつながった。
デジャブ体験は、私の人生にとって非常に良い意味で大きな影響を与えることになった。
*
私1:「ん???ちょっと待って。ここはもしかしたら、、、夢の中じゃないかもしれない。」
私2:「夢だよ、ここは!何言ってんだよ、オレが朝っぱらから雨の中を全力ダッシュするわけないだろ」
私は、恐る恐る自分の左腕を掴んで思いっきりつねってみた。めちゃくちゃ痛い、たしかに肉体があるのを感じる。空に手をかざすとパラパラと雨を感じる。
ということは.....
ここは夢じゃない!!私たちは今、夢で見た景色の中にいる...。
***
私たちに内在する多重人格者である自我
私たちは、自分が意識をして体を動かしていると思いがちだが、決してそんなことはない。
私たちは日々、無意識のうちにたくさんの活動を行っている。
たとえば、カフェで友人と話をしている時でも、しゃべりながらコーヒーを飲んでいるし、次に何を話そうかと頭の中で考えている。
さらにいえば、私たちの生命を維持している呼吸、心拍、体温の維持などもすべて無意識のうちにコントロールされている。
さらにいえば、私たちの生命を維持している呼吸、心拍、体温の維持などもすべて無意識のうちにコントロールされている。
意識によって、自分のすべてを制御しているという考えは、完全に勘違いだ。人間にはたくさんの自己が同居し、常に複数の事柄を並行して処理している。しかも、ほとんどの事柄は意識(エピソード記憶)にはのぼらずに、無意識のうちに処理されている。
さまざまなことを同時にやっている「多重人格者の私」が自我を持つためには、「自分は1人しかいない」と意識上で勘違いすることが重要なのかもしれない。
***
【おわりに】
私は先日、強烈なデジャブ体験によって、数年ぶりに非常に強い解離性障害を発症した。
それは、私の人生の衝撃度ランキングでダントツでトップクラスの出来事となった。
その後、どういうわけか幼い頃に分裂した人格が統合したり、記憶を共有できない別人格の私とも記憶をかすかに共有できたり、また、それまで受け入れることができなかった精神障害をようやく受け入れることができるようになった。
私は今、経験した出来事を思い出せるかぎり詳細に書き残している。
現在、私にはいくつかの自我(意識)があり、それは原則として同じタイミングで出現することができない。心理カウンセラーによれば、人格の解離は本来の人格を保護してくれる存在なのだという。
なぜこのようにエピソード記憶が複数存在しているのか、解離性障害(多重人格障害)は現代の医学では不明確な部分も多く、治療が困難な障害である。
私が思うに、人間には自由意思はないと思っている。多重人格者に比べて一般的な健常者は、あまり物事を意識的に深く考える機会は少ないかもしれない。
しかし、私たち人間の脳は、複数の解離人格を持っていると考えている。たとえばお酒や睡眠薬を飲み過ぎて記憶がなくなったとしよう。
意識の連続保管機能が一時的に停止したとしても、自分の家を覚えていて、どうやって帰ったか覚えていなくても、気づいたら家に帰ってベッドで寝ていたというケースはよくあることだ。
つまり、あなたがあなたであるという自我はあなたの顕在意識にはなく、潜在意識下(深層意識下)で脳からの命令によって動いているのだと思う。
単一人格者も多重人格者も顕在意識は1つだ、意識しなくとも水面下では起こった出来事を記憶している。
しかし、決定的に異なる点は記憶の連続機能を果たす意識、すなわち顕在意識が何らかのひょうしに同時並列的に存在してしまうのが多重人格者ではないかと思っている。
こうして考えると、私たちの意識とは、単に脳の命令にしたがって1テンポ遅れで行動する観察者に過ぎず、私が私であるかのように錯覚しているだけではないか、と思うのだ。
人はみな、大なり小なり多重人格者だ、一般的な健常者の顕在意識はそれを気づかないふりをして生活しているだけで、解離性障害を持つ人は、たまたまそれが顕在意識にあがっているに過ぎないのだ。
うん、きっとそうだ。そうに違いない。
(おわり)
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