柱の裏の落書き

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解離性同一性障害~多重人格者の備忘録②~


ここまで、解離性同一性障害(多重人格障害)について一般的に知られていること、また私のこれまでの実体験や知見に基づき、ひと通りまとめてみた。

ここからは、私自身を事例としてこの障害についていくつか書き残しておきたい。最後までお付き合いいただけたら幸いだ。

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***


人格交代とはどういう感覚か?

私は現在、1つの主人格と3つの交代人格がある4重人格者だ。

動画やブログを見ていると、交代人格の説明として、

①「運転席があってそこに違う人格が座っている」と説明をしている人がいたり、②「いくつも部屋があり、そこをノックして違う人格を呼び出す」と説明している人がいたり、あるいは③「有識者会議が脳内で行われていて、そこで代表者が全人格をコントロールしている」と説明している人がいたり、多重人格者の脳内で起こっている現象は人それぞれ異なるようだ。


私が人格交代する瞬間、脳内で実際にどのような現象が起こっているのかを言語化して表現してみたい。

主人格(私、ユーディー、男性)
交代人格①(トナさんと呼んでいる、男性)
交代人格②(マヤちゃんと呼んでいる、おそらく女性)
交代人格③(ジワッホさんと呼んでいる、おそらく男性?)

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主人格(私、ユーディー、男性)


私が最もよく知る人物。双極性障害(躁うつ病)を抱えていて、躁状態とうつ状態を交互に繰り返しながら、精神のバランスを取っている。うつ状態では身体が動かないが、気分は比較的前向き。幼少期に繰り返し何度も見た怖い夢(夜驚症)から解離性障害を発症、現在に至る。

性格:気分屋、前向き、今が楽しければそれでいい。稼いだお金は全額投資にフルベット。独り言が多い、人といる時は聞き手に回る。肉食、野菜が嫌い。焦がした焙煎料理、苦いものが好き。典型的な夜型人間。

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交代人格①(トナさんと呼んでいる、男性)

通常、一人の人間はひとつの肉体(ハードウェア)とひとつの意識(OS=ソフトウェア)を持っている(単一人格者)。私というOSが起動している状態で、①に交代する時は、いきなりもうひとつのOSが起動してしまうような感覚。私が困っている時に出現しやすい。

人格交代の2時間前くらいに脳の中でチャイムが聞こえる(チャン・
チャン・チャン・チャン・トナ~)、聞こえたら交代の準備に備える(※だからトナさんと呼んでいる)。
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性格がアプリケーション(アプリ)だと仮定すると、通常は同じOS上でアプリを手前に出したり後ろに隠して操作をすると思うが、①に切り替わる瞬間、私はスリープモードに入り、①が私の思考や身体を操作するのを傍観者のように眺めている感覚。①の意識がシューっと入る感覚で私の意識は遠ざかっていく。

意識の共有はできているようでできていない、ロボットの後部座席に座りながら夢を見ているような感覚。

後で私(主人格)に戻った時に、何となく夢の中で見た景色や出来事を覚えているので、周囲の人たちに今まであった出来事の答え合わせをする。面倒なことを割と引き受けてくれる。

トナさんは全ての人格の中で唯一任意交代ができる人格だ、私の右眉毛の上あたりを中指と薬指で摩ると交代できる確率が高い(遊び半分では絶対にやらないが)。

トナさんは目つきが鋭くなるので、いつも伊達眼鏡をかけている。

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性格:とにかく仕事と勉強ができる、今の私があるのはほぼこの人のおかげ。強迫性障害の素養がある。几帳面、完璧主義、ケーキを切るとき定規で図る、階段は右足で終わらないと昇りなおす、甘い飲み物が苦手、など。

私の記憶が正しければ、本来の私はトナさんの属性が強く、今の私は分裂した後、主人格になったように思う。

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交代人格②(マヤちゃんと呼んでいる、おそらく女性)

夢の中にログインするような不思議な感覚、周囲の人たちが困っている時に出現しやすい。お酒に酔った人が私にもたれかかったり、誰かを介護してあげる時など、脳の中でパチーンと音がして気絶した瞬間に切り替わることが多い。私がダラーンとなってうつむいた状態で交代することが多い。

VRゴーグルをつけたことがある人は、装着した瞬間に別世界に突然入り込んだ(ログインした)不思議な感覚を覚えると思う。

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②に交代する瞬間はまさにこの感覚に近い。たしかに現実世界にいるのに、それが夢の中にいるような不思議な感覚を覚える。

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私はその時、彼女の裏側にいて、並列的にマヤちゃんが行動しているのを傍観者のように見ているような感覚。
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意識の共有はできているようでできていない、この次元を並列的に生きているような、私が副操縦席に座っているような感覚とも表現できる。

後で私(主人格)に戻った時に、「顔つきが女性らしかったよ」と言われることが多い。表情が柔らか。男性にも女性にもモテる。女性を口説いて私のところに連れてきてくれるが、その後の私の対処がズサンなので毎回大変。主人格のボロが出る。

性格:優しい、思いやりがある、大人しい。時々私のセンスと全く違う服を買ってくる、イチゴが好き、イチゴを食べると連想して交代しやすい、お茶など苦いものが苦手、など。

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交代人格③(ジワッホさんと呼んでいる、おそらく男性?)

完全なる別人格、憑依型人格ではなく非憑依型だと言われるが、最も解離状態がひどい人格。強いストレスを感じた時に出現するらしい、あまりストレスを感じない体質なのでレアキャラ、私の仲のいい友人でも数名しか会ったことがない。

頭の後ろ側に引っ張られながら意識が遠ざかっていく感覚で、異次元に引き込まれるようにして私は意識を失う。脳の中から声が聞こえる、「ジワッホジワッホ」。その後の事は不明。

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何人か会った人に話を聞く限り、近所のおばちゃんのような話し方になるらしい。あっという間に出現して、数分経つとあっという間に消えてしまうらしい。ジワッホさんが気絶すると私に戻る。

性格:陽気、よくしゃべる。紫色が好き、など。未だに謎が多く、私がこの世界で最も興味のある人物。

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ジワッホさんは上記のように、私の身体を使って異次元からこの世界にやって来ているのだろうか?本当に謎の存在、私から見れば彼は異次元からの使者だ。

私はもしかしたらジワッホさんは憑依型人格ではないかと思っている。


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以上、私の交代人格についてわかる範囲で記述してみた。交代する瞬間まではわかるが、交代した後のことはほとんど記憶を共有できないため、周囲から聞いた情報をもとにまとめてみた。

おそらく私が私として存在している間、彼らは私の裏側で待機状態(スリープモード)にあり、私のことを私以上に観察しているのだと思う(そうでないと主人格である私を演じることができないはずだからだ)。

私がこの次元から消滅し、彼らに交代した後、彼らは私のように振る舞い、私の代わりをしてくれているのだ。

交代人格たちは私のことを知っているのに、主人格である私の方からは彼らのことが見えない。何とも不公平である。

そんな彼らは今日も私の身体を共有しながら、パラレルワールド(平行世界)を生きているのだ。

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多重人格者の時間感覚

多重人格者は単一人格者と違って、1日が過ぎるスピードが早いと言われる。

これは間違いではないが正解でもない、以下の図を参照してほしい。

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Y(Yudy)は主人格である私であり、黄色部分が私が表面に出ている時間のイメージで、それ以外が交代人格が表に出ている時間を表現したものである。

おそらく多くの方々が私の1日の時間感覚を、上記のようにイメージしていると思われる。

たしかに、黄色以外の色は私がスリープモードに入っているので、あっという間に時間がワープしてしまい、時間が過ぎるのが早く感じるのだろうと思っていると思う。

しかし、実際はそうではない。以下の図のほうが実際の感覚に近い。

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私たちは同じ肉体を共有しているが、それぞれが24時間という時間軸を並列的に経験しているはずだ。

交代人格であるT(Tona)、M(Maya)、J(Jiwahh)はそれぞれの時間軸をパラレルワールド(平行世界)で経験しているようなイメージだ。

私がスリープモードに入っている時間も私が表面に出ている時間も、私にとっての24時間の体感時間はそう大きく変わらない。

意外と思うかもしれないが、私たちはそれぞれ24時間の時間感覚を持ちながら別々に生活しているのだ。

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多重人格者は
記憶の共有はできるのか?

これは非常に回答が難しい問題だ。

記憶が共有できていると言えばできているし、できていないと言えばできていない。この感覚を言語化して説明するのは非常に困難だ。

仮に記憶が共有できていると回答すれば、それは単一人格であり、人格ではなく単に性格が変わっているだけということになる。かと言って、記憶が共有できていないかというと必ずしもそうではない。

①の人格(トナさん)との解離はどちらかと言えば弱く、離人症の延長線にいるような感覚だ。私は彼の操縦するロボット(私の身体)に乗って、トナさんが運転席に座り、私は後ろの席に座りながら、今起こっていることを傍観者として見ているような感覚を覚える。
だから何が起こっているのかは何となくわかる、後から周囲から言われて答え合わせをするような状態だ。記憶が共有できているようでできていない、というのはこういう感覚だ。

②の人格(マヤちゃん)との解離はおそらく比較的強く、平行世界の向こう側にログインして、あちら側の世界をまるで主人公になったように体験している感覚だ。私は夢の中にログインし、彼女がする行動をフワフワと夢を見ながら、マヤちゃんがやっていることを追体験しているようなイメージだ。だから記憶があると言えばあるし、ないと言えばない。

③の人格(ジワッホさん)とは完全に解離状態にあり、私は完全に意識がブラックアウトした状態になる。まるで睡眠麻酔をかけられたように、あっという間に時間が過ぎる。唯一、意識・記憶が完全に私の自己同一性から分断されてしまい、私は健忘状態に陥ってしまう。

上記のように意識感覚を言語化して言葉で説明するのは非常に難しいが、おそらく多重人格者も表層意識(顕在意識)は複数あれど、深層意識(潜在意識)は同じものを共有しているはずだ。

そうでなければ、家の住所や車の番号、友だちの名前を共有して生活できていること自体に矛盾が生じてしまう。おそらく顕在的には意識が分断されてしまったとしても、私たちの潜在意識は常にひとつであると考えている。

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人格統合か人格共存か?

最後になるが、解離性同一性障害(多重人格障害)は現在の医学では完治できないと言われている神経障害である。
通常、その治療目標は、複数の人格を1つに統合することにある。

これまで日本と海外で私が通った精神科は4件、心理カウンセリングが3件(私は10年以上、海外に在住している)。いずれも例外なく、人格を統合する治療を受けるよう勧められた。

おそらくドクターや心理カウンセラーは私のためを思って人格統合を勧めてくれているのだろうが、私はこの人格統合治療には一貫して反対の立場を取っている。

先に交代人格には人権はないと書いたが、人格統合の本質は「交代人格を消滅させること」を意味し、そこには倫理的な問題があると感じているからだ。これは当事者である私の感覚では、-過激な言いまわしをすれば-、殺人行為と変わらない。

それに人格の統合の過程で誤って、主人格である私の方が消滅しまうリスクだってあるのだ。

試しに精神療法や催眠療法を何回か繰り返し受けたことがあるが、家に帰ってから胸がざわつき、他の人格たちがひどく反発しているような違和感を感じたことがある。

人格統合は必ずしも成功するとは限らず、統合が難しい場合、複数の人格どおしの関係に協調性をもたせ、正常に役割を果たせる状態にすることを目標とするようだ。つまりは人格共存を目指すということだ。

私はすでに他の人格たちとうまく共存できていることから(少なくとも私はそういう理解でいる)、これ以上の治療は停止し、今まで通りに人生を歩んでいくことに決めた。私にとって彼らの存在はやはり必要で、かけがえのない分身のようなものだからだ。彼らがあってこそ、私があるのだ。

その意味においては、私は自分を障害者だとは思っていない。単一人格と多重人格、それは単一人格が大多数を占めるこの世界において、私はたまたま人格が複数存在している少数派に過ぎないのだ。

この内容をブログに書いた意図は、
医師の診断書を大義名分のようにして、私の承認欲求を満たすことだけではない。私と同じようにこの障害に苦しんでいる人を体系的に理解してくれる人が少しでも増えてくれればこれ以上の喜びはない。そうであってこそ、このブログ記事を書き残した意味があったといえる。

そして何よりも、私の交代人格としてしか存在することができない彼らが、たしかにこの世界に存在していた事実を、ここに記録として書き残しておきたかったからだ。

それこそが、私が彼らのために唯一してあげられる、心からの感謝の証である。

解離性同一性障害~多重人格者の備忘録①~


解離性同一性障害という神経疾患がある。

去年の夏くらいに周囲の交友関係のある人たち、自分の同僚、クライアントさんたちにこの障害を公表したところ、思いがけないほど多くの反響があり、この障害について興味がある人が少なからずいることを知った。

解離性同一性障害とは聞きなれない名前かもしれないが、ひと昔前は多重人格障害と呼ばれていた病気である。こちらの表現のほうが世間一般には認知されているかもしれない。

この病気は一言でいえば、自己の同一性を保持することができなくなる神経障害のことだ。

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例えば、あなたという人間は、あなたがあなたであるという意識を持って生きていて、あなたはその時間、あなたという自我、つまり自己の同一性(人格)は連続し続けていると思う。

ところが、解離性同一性障害を持つ人たちは、あるトリガー(条件や環境)をきっかけとして、記憶・知覚・意識といった、通常は連続して持つべき精神機能自己の同一性(人格))が分断されてしまい、別の人格(自我)がそれまでの人格に代わって出現するという何とも不思議な病気である。

解離性同一性障害はDID(Dissociative Identity Disorder)と呼ばれるが、非常に長い名前なので、以下この記事では「DID」または「多重人格」で表記する。

ここではいわゆる医師や医療関係者が説明するようなDIDに関する内容の記述ではなく、DID当事者として、色々と思うことを書き残しておきたい。


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解離障害の発症のメカニズム

解離状態の説明としてわかりやすい例を出そう。たとえばあなたが読書やスマホゲームにハマっていて友人や恋人が呼びかけても気付かないことがあると思う。

この状態にある時、あなたの意識はいわゆる解離状態にあり、ハッと気づいて我に返ったことがあるのではないだろうか?人間は夢中になっている時、軽い解離症状を引き起こしていることが多い。

たとえば台所にゴキブリが出た時、あなたは恐怖のあまり、びっくりして気絶してしまうかもしれない。

これは、あなたが
ゴキブリという存在がそこにいる事実(恐怖)を受け入れることができず、あなたの意識が防衛機能を発動し、意識を解離させること(遠ざけること)によってあなたは気絶状態に陥る。

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解離症状はあなたの意識を気絶させる(遠ざける)ことによって、一時的に目の前の現実から恐怖を取り除いてくれる防衛装置となるのだ。

通常、これがきっかけで人格が分裂することはない。通常は一時的な解離症状に留まり、その記憶はエピソード記憶の1つの点としてあなたの潜在意識に保管され、いつの間にか記憶(顕在意識)からは消え去ってしまう。

ところが、何らかの恐怖体験によって解離を繰り返すことにより、記憶が
一時的な記憶のまま保存されず、その時点からエピソード記憶があなたの主人格(一番表に出ている人格)から分裂し、同時並列的に別の人格(交代人格)が誕生し、一緒に成長し始めてしまうケースがある。

これが解離性同一性障害の発症のメカニズムだと言われている。

解離性障害の発症は決して何かにハマっているような楽しい経験でなく、恐怖体験、特に幼少時における家庭内暴力や性的な暴力を繰り返し受けることによって、当事者(主人格)を現実世界から切り離す(意識を遠ざける)ために発症するケースが多いと考えられている。

この解離症状は、非常に大きな苦痛に見舞われたときに起こることがあり、実際に痛みを感じなくなったり、苦痛を受けた記憶そのものが無くなることがあるという。私もある出来事を思い出したり、ある食べ物や匂いによって解離性障害を発症することがある(ちなみに私は暴力を受けたことはない)。

なお、解離性障害は男性よりも女性に多く発症する障害らしく、私のように男性が発症するケースは非常に稀なようだ。生物学的には女性の脳のほうがヒステリー(解離)を引き起こしやすいのだそうだ。

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私は昨年から精神科や心理カウンセリングに通うようになって、隅から隅まで神経機能に関する検査を行ったが、私の脳機能自体には幸い転換性障害、解離性障害(いわゆるヒステリー)を発症するような脳波の異常は見られなかった。

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約20年ぶりのMRI(脳のスキャン)、結果として
脳機能は正常と診断された。

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こちらはEEG(脳波測定)、幸い脳波にも異常は確認されなかった。したがって、私の症状は物理的な脳の損傷が原因ではないことがわかる。

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主人格と交代人格

多重人格者の場合、通常は主人格と交代人格という2つの人格に分けて考えられる。

主人格とは最も表に出ている状態にある人格のことで、今このブログを書いているのは主人格である私だ。私はこのブログのアイデアが浮かび、書きたい内容を箇条書きにして、今こうしてブログを書いている。楽しく書いていたり、時には書きながら恐怖を感じたりしているが、これは私という自己の同一性が保持され続けている状態だ。

一方で、交代人格とは私が何かの拍子に過去の怖い経験を思い出したり、誰かにもたれかかられたり、特定の物を食べたり、香りを嗅ぐと、私という意識(自我)が遠のいてしまい、私は意識を失い、交代して表に出てくる人格(たち)のことを言う。

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ちなみに、交代人格には非憑依型と憑依型の2つの種類がある。

非憑依型人格は目つきや口調が少し変わったり、周囲からは「いつも少しと違うかな?」くらいの感覚で、目に見えて大きな変化は感じられないかもしれない。この感覚については後で言語化して表現してみたい。

一方で、憑依型人格は、突然誰かが身体に乗り移ったかのように人格が豹変してしまい、誰が見ても明らかにおかしいと気づくくらい、完全に別人になってしまうような状態だ。憑依人格は周囲の人たちから、「わざとやっているんじゃないか?」と思われ、悩んでいる人も多いらしい。私には憑依人格がないため、どういう感覚になるのかはわからない。

※ 余談だが、憑依という言葉はある種のオカルト的なものだと思っていたが、実際に医学用語でも用いられている。江戸時代などの文献を見ると、キツネや犬のように動物の霊が憑依するといった文献や、また中世では神や悪魔などの超自然的な存在が憑依するといった文献や物語が多くみられる。おそらく現代医学における解離性障害の概念が認知されていなかった当時は、憑依型人格のことを
こうした表現を使って祟り(たたり)のような扱いをしていたのではないか、と思われる。

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私は元々、(解離性)離人症を発症することが多く、それが離人状態にあるのか、交代人格の状態にあるのか見分けがつかなかった。
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離人症とは、まるで自分がロボットに乗って操縦席から世界を眺めているような感覚、あるいはガラス越しに世界を傍観しているような、言葉で説明できない不思議な感覚だ。
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何となくだが、自分自身の意識や感覚について、自分の意識が体から離れていったり、自分自身を客観的に観察したりするような状態に陥ることが多くあり、その感覚が9個くらい存在していた。

結局、何度もカウンセリングを重ね、明らかになったのは、6つの離人感覚と3つの交代人格があると診断された。

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性格と人格は異なるもの

最もよく間違われそうなものに性格と人格の違いがある。

性格とは本来的に「その人の感情・意志などの傾向」のことを言う。

感情の起伏が激しい人などは、「あの人はまるで人が変わったようだ」と周囲から言われることが多い。私も普段は温厚で大人しい性格ではあるが、しつこくされたりすると途端に人が変わったように目つきが変わり、怒鳴り散らすことがある。

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それを見た周りの人たちは「ああ、多重人格だ!」と誤解するするかもしれない。ただ、それは私の性格的なものであって決して人格が交代しているわけではないのだ。

このように、突然怒り出すことは誰にだってあるし、しつこくされて怒っているのは外ならぬ私自身である。私は温厚な状態から怒っている状態まで自分が自分であるという自己の同一性を保持していて、温厚な状態も怒っている状態も私は私であると認識している。

これは私の性格によるものであって、決して人格が変わっているわけではないのだ。

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一方で、人格とは「個人として独立しうる資格」のことを言う。

性格とは自分が自分であるという自己の同一性を保持している状態と書いたが、人格が変わるという状態はこの、自分が自分であるという自己の同一性が切断された状態になることだ。

台所にゴキブリが出た時の例を思い出してほしい。ゴキブリという存在がそこにいる事実(恐怖)を受け入れることができず、意識を解離させること(遠ざけること)で本来は防衛本能が働き、気絶をするだろう。

ところが、多重人格者の人格交代とは、気絶した瞬間に今の私がこの次元から消滅(気絶)し、代わりに別の人格が目を覚まして表に出てくる状態のことを言う。

この時、今の私は気絶状態にある一方で、別の人格が行動している間、私は自己の同一性を失い、別の人格を持った誰か(交代人格)が私の身体を使って私の役割を演じる。私が気づく頃には別の人格がゴキブリを退治してくれるようなイメージだ。

人格交代は良くも悪くも非常に厄介で、
自己の同一性を失っている間、意識や記憶が分断されてしまうのが大きな問題である。

このように性格と人格は混同されて語られやすいが、上記のように明確に異なることを理解していただければ幸いだ。

感覚を言語化して伝えるのは非常に難しいが、両方の感覚がわかる当事者だからこそ、混同されて語られることがなんとも腑に落ちないのだ。

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性同一性障害との違い

性同一性障害と解離性同一性障害の違いについて言及しておきたい。

性同一性障害は本来的に自身のアイデンティティーが自分の性別とは真逆の属性を持つ人たちのことをいう。男性であれば自分を女性と思いこみ、女性であれば自分を男性と思いこむ、いわゆる性的マイノリティー(LGBTQ)の人たちのことだ。

21世紀初頭から始まった世界的なリベラルの潮流もあり、今では彼ら彼女たちに対して社会的認知も向上し、いわゆるゲイやレズといった同性愛者の人たちの社会的地位は、ある種の市民権を得たといってもいいだろう。

私自身は自分自身が男性であり、自分の性別は男性であると認識している。その一方で、私の人格には女性らしく振る舞う人格がいることから、性同一性障害のテストを受けさせられたことがある。

結果として、私は精神的にも肉体的にも男性であると結論づけられ、性同一性障害ではないと診断された。

おそらく自身の中の交代人格に、自分の性別とは違う性別(男性であれば女性、女性であれば男性)を持った人物がいる場合、このテストによって診断してもらうといいだろう。

解離性同一性障害(DID)の場合、交代人格に別の性別の人格がいる場合、原則として主人格(最も表に出ている人格)の肉体と精神が同一性を保持しているかどうかが問われることになるようだ。

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多重人格者は演技をする

多重人格者と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、突然目を閉じてうつむき、目を覚ましたら別の人間になっているようなアニメや映画の世界のことだと思われるかもしれない。

ピンチの時に救ってくれるヒーローのような人間かもしれないし、あるいは突然踊り出すようなクレイジーなパリピかもしれない。

多くの人たちが多重人格を演じてみてほしいと言われたら、誰だって上記のような振る舞いをするだろう。

ところが、多重人格者の演技は上記とは真逆だ。
多重人格者の多くは、むしろ主人格を演じようとするだろう。だって、いい歳した大人が社会生活において、コロコロと別人格を表に出すことは社会的にどう考えてもデメリットのほうが大きいのだから。

だから、私たち多重人格者は演技をする、それは複数存在する人格がまるで主人格のように、単一人格者であるように訓練をし、演技をし続けるのだ。

多重人格の状態は傍から見れば演技のようにも見えるだろう、だからこそ本当の多重人格者は多重人格のふりはしない(簡単には他人に見せない)のだ。

実際に多重人格者に人格を切り替えてほしいと言っても、通常は断られるだろう。人格には任意交代と強制交代があるが、任意で誰にでも交代できる能力があるとしたら、それはある意味で障害ではないとも考えられる。本当に必要な場面で交代できるのであればそれは健常者だ。

人格を任意で交代するということは、私の理解では意図的に解離性障害を自ら発症させる行為に他ならないわけで、そんな事をして他人の興味を得ようとする多重人格者には疑問を感じざるを得ない。

私たちは、出てきては困る場面で出て来られるから困っているわけで、だからこそ精神科や心理カウンセリングに通って治療を受けているのだ。

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交代人格に人権はあるか?

先ほど、
人格とは「個人として独立しうる資格」であると書いた。もし、人格が個人として独立しうる資格であるとした場合、そこには人権問題が発生する。

具体的には、「多重人格者には人格の数だけ人権を認めるべきではないか?」という議論だ。

私はこの考え方には反対だ、理由は以下のとおりだ。

多重人格者はそれぞれに
個人として独立しうる資格があるとすれば、私の場合、役所に行ってIDカードを4枚取得する必要がある。

そうなると、行政の戸籍上は4人の人間が存在することになり、私は4倍の税金を支払う義務が生じることになる。

税金はもちろん、私が電車に乗ると4倍の電車代を払わなければならず、飛行機に乗る時は身体がひとつなのに4席分のチケットを買わなければならなくなる。

そんなわけはない、言い方は悪いが、私が社会生活を送るにあたっては、主人格である私だけが人権を認められればいいのであって、交代人格には人権は必要ないと考えるのが適切だ。

仮に3つの交代人格を主張するとしたら、それは世間からの承認欲求に他ならないのだ。それは自分が多重人格に苦しんでいることを承認して欲しいという当事者のエゴに過ぎない。

社会通念上、都合の良い時だけ人権が認められて都合が悪くなったら人権がないと主張するのは理屈としては成立しないだろう。

もっとも、人格統合において、他の人格を消滅させることについては倫理・道徳的な問題があることは理解している。これは後述する。

しかし、社会生活を送るうえで私たち(多重人格)は私がすべて代行すれば支障はきたさないのだから、それでいいのではないだろうか?

(つづく)

迷ったら一歩前へ!


後悔の本質は過去を変えたいと願う気持ちだ。

多くの人たちは人生の最後にこうぼやくのだそうだ。

「ああ、あの時にやっておけば良かった」、と。

「してしまったこと」を悔やむよりも、「したかったのにしなかったこと」のほうが悔やみは大きいだろう。


やらなかった後悔をしないように、何事もとにかくやってみたほうがいい。

迷ったらワクワクする方を選択しよう。

チャンスがまわってきたら、ためらわずにトライしてみよう。

迷ったら一歩前へ

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***

私は一日の終わりに目を閉じて、眠りにつく前に自分自身にこう問いかける。

「今日は自分らしく生きることができただろうか?」

今日は失敗を恐れずに何かに挑戦することができただろうか?」

お金や地位や名誉、そんなものよりも
ブレない価値観こそ、人生において大切なことだと思う。

今日が人生の最後の日だったとしたら、あなたは何をするだろう?

美味しいものをたくさん食べる?

思い切って好きだったあの人に想いを伝える?

これまでずっと行きたかった場所に行ってみる?

それとも、溜まっている仕事を一気に全部終わらせる?

残念ながら人生最後の日なんて誰にもわからない。

だから、その日その日を全力で楽しんだほうがいい。

過去も未来も幻想でしかない、すべては今の積み重ねなのだから。

やりたいことは今すぐにやったほうがいい。


***

かつて臨死体験をした私は、遠ざかる意識の中で幻を見たことがある。



急性大腸炎を発症し、意識不明で病院に運ばれたあの日。

43.1℃の超高熱、2分30秒にわたる心肺停止状態、その時、私の意識はこの現実世界ではない別世界を彷徨い、これまでの人生の1コマ
1コマが走馬灯のように映し出されていく映像を脳内に描写していた。
走馬灯

映像が終わると、私の意識は光さえも飲み込むような漆黒の闇の中に引きづり込まれそうになった。

あの時、臨死状態だった私は、たしかに自らの強い意思で暗闇から遠ざかり、その結果、間一髪でこの世界に戻って来ることができた。

その時に感じたこと、『人間は強く願うことによって運命さえも変えることができる』ということだ。

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目が覚めて意識が戻った3日後。

それからの私は、いつ最後の瞬間が来ても後悔しないように全力で生きようと決意した。

私たち人間にとって将来、必ず約束された通過儀礼のひとつに「死」がある。

あなたは、人生の最後に必ず、私がかつて体験したことと同じ
体験をするだろう。

走馬灯のように映し出されていく映像、より多くの経験をしたほうが最後に自分自身を振り返る時、きっとそれは充実した物語になるだろう。

***

今この瞬間を精一杯楽しめ!

明日のことを考えすぎるな、すべては今の積み重ねに過ぎない。

今を楽しめない人間が、明日を楽しめるわけがないのだ。

***

「できる」、「できない」で物事を考えるのはもったいない。

結果はともかく、生きている間に多くの経験をしたほうがいい。

そのほうが人生最後の瞬間は、きっと充実したものになるはずだからだ。

「今日は自分らしく生きることができただろうか?」

今日は失敗を恐れずに何かに挑戦することができただろうか?」

判断に迷った時は、この言葉を思い出してほしい。

迷ったら一歩前へ!

効率化のワナ


私は時間を無駄にするのが大嫌いな性格だ。

今日も陽は昇り、沈んで行く。

人生はたった80年しかない、私たちが人生を楽しめる時間はせいぜい4,000週間くらいだ。

私が私でいられる時間はとても限られている。

残りの人生、何をして楽しもうか。

***

【丼ぶりと定食】

あなたは今、お腹が空いている。

食堂に入り、メニューを開くと
ぶりと定食が並んでいる。

みなさんはどちらを選ぶだろうか?

定食を注文すると、ご飯と味噌汁、お豆腐、漬物、そしてサバの塩焼きや焼肉がお盆に乗って運ばれてくる。なかなか豪華な見た目だ。

まず、あなたは少しお茶を飲んで箸を持つ、おっとお豆腐に醤油をかけようか。

そしたら行儀よく茶椀を持っておかずをつかみ、箸を移動して口に入れる。

おいしい、いい味だ。そしてあなたはすかさず
箸を移動してご飯をつかむ。

ご飯をつかんだら、また箸を移動して口に入れる。

マジでどうでもいい話だが、定食を頼むとやたらと無駄が多い...笑

箸を移動させておかずをつかむのに1秒、箸を移動させて口に戻すのに1秒。

箸を移動させてご飯をつかむのにさらに1秒、箸を移動させて口に戻すのにさらに1秒。

腕を動かして食べ物を取るたびに箸を移動させるのが面倒だ。

一方で丼ぶりはどうだろう?

丼ぶりは文字通り、ご飯の上におかずが乗っていて効率的だ。

箸をいちいち移動させずに、一度におかずとご飯を同時に食べることができるからだ。

何と合理的な食べ方だろうか、
私は迷わず丼ぶりを選ぶ。

昔、お金がない学生の頃、本当は定食が食べたいのに、丼ぶりとの差額わずか50円がもったいなくて食べることができなかった。

社会人になって仕事をするようになって、
今度は箸を移動する時間がもったいなくて、私は結局丼ぶりを食べるという選択肢に至った。

1秒でも早く食べ終えて、さっさと仕事に戻りたいのだ。

今でも定食をゆっくり食べている人を見ると、優雅な人生だなぁと羨ましくなる。

きっと、お金も時間もゆったりとした感覚で楽しめる人なのだろう。

***

【超効率的仕事術】

中学生か高校生くらいだったと思う。

初めて買ったパソコンがIBM社のThink Padだった。今は中国のLenovo社にブランドごと売却されてしまったが、私はThink Pad一筋で、今でもノートPCもデスクトップPCも同メーカーの商品を使い続けている。

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Think Padのいいところは人差し指で真ん中の赤いボタンをマウス代わりに使えるので、いちいち右手をマウスに持ち替えてスクロールする手間が省けるところだ。

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右手をマウスに持ち替えるのに1秒、キーボードに戻るのに1秒。

ノートPCはともかく、デスクトップPCで仕事をするときは、わざわざスクロールのたびに右手をマウスに持ち替える必要があるため、時間効率が非常に悪い。

その点、Think Padの赤いボタンは効率的で、私にとってはなくてはならない存在なのだ。

1分1秒を争うビジネスの世界、資本主義は「より早く
」「より遠くへ!」が求められるシビアな世界だ

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私が1日でもっとも長くいる場所はパソコンデスクの前であり、キーボードは私にとって最も長い時間を過ごすパートナーである。

したがって、最も効率のよい相棒を選ぶのは当然のことである。

***

【漁師とコンサルタント】

人生にとって最も大切なものは時間である。

お金は失っても取り戻せるが、時間は一度失ったら取り戻すことはできない。

その意味で、私は時間の金持ち、
時間の貧乏という概念があっても良いと思う。

仕事に追われれば追われるほど、何か大切なものを見失ってしまうような気がする。

『漁師とコンサルタント』という、何とも面白いジョークがある。

資本主義を強烈に皮肉った話でとても面白い。

メキシコの海岸沿いの小さな村に、MBAをもつアメリカのコンサルタントが訪れた。ある漁師の船を見ると活きのいい魚が獲れている。

コンサルタントは聞いた。「いい魚ですね。漁にはどのくらいの時間かかるのですか?」

「そうだな、数時間ってとこだな。」


「まだ日は高いのに、こんなに早く帰ってどうするのですか?」


妻とのんびりするよ。一緒にシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しみ、それで、寝ちまうよ。

それを聞いてコンサルタントはさらに質問をした。「なぜもう少し頑張って漁をしないのですか?」

漁師は聞き返した。「どうして?」と。


「もっと漁をすれば、もっと魚が釣れる。それを売れば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買える。そしたら人を雇って、もっと大きな利益がでる。」


「それで?」と漁師は聴く。


コンサルタントは答える。「次は都市のレストランに直接納入しよう。さらに大きな利益がうまれる。そうしたら、この小さな村から出て、メキシコシティに行く。その後はニューヨークに行って、企業組織を運営すればいいんだよ。」


「そのあとはどうするんだ?」漁師はさらに聞いた。


コンサルタントは満面の笑みでこう答えた。「そこからが最高だ。企業をIPOさせて巨万の富を手に入れるんだ。」


「巨万の富か。それで、そのあとはどうするんだい?」と漁師は最後に質問した。


「そしたら悠々とリタイヤさ。
小さな海辺の町に引っ越し、家族とのんびりシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しむ。のんびりした生活を送れるのさ。

漁師はため息をつき、やれやれ、という顔で一言を付け加えた。

「・・・・そんな生活なら、もう手に入れているじゃないか。」


『漁師とコンサルタント』より
***

【効率化のワナ】

丼ぶりと定食のメニューが並んでいれば迷わず丼ぶりを選ぶ、その理由は1秒でも早く食べ終えて、仕事に戻ることだった。

仕事に戻ったら戻ったで、業務を極限まで効率化する。
人間がこれまで苦手としてきた継続・反復といった事務作業をすべて自動化すれば仕事の業務効率は飛躍的に向上する。

今まで8時間かかっていた作業を1時間でできれば、8時間労働であれば8倍の仕事をこなせるようになるわけだ。

しかし、実際に私が体験したのは真逆の結果だった。



仕事を効率化し、極限まで最適化するとたしかに仕事そのものは減る。

問題はここからで、空いた時間のリソースを使って別の仕事を始めると、かえって仕事が増えることになる。

たしかに、8時間かかる仕事を1時間に短縮できたものの、空いたリソースを使って別の仕事をすると、延々と仕事量が増えてしまうのだ。

これでは収入は増えるが、人生にとって大切なことを失ってしまう。そう、時間だ。

漁師とコンサルタントの話のオチではないが、すでにそれなりに理想とする生活を手に入れている場合、効率化によって空いた時間は、むしろ「無駄」を楽しむことに人生の時間を使ったほうが良い人生になるのだろう。

効率化の本質とは「無駄」を楽しむためのものである、という結論だ。

そう、空いた時間は
「無駄」を楽しむために使おう。そのほうが人生は優雅なものになるはずだ。

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こうして今日も、Think Padのキーボードを叩きながらブログを更新している。

効率化した時間を使って、今日こそは
優雅に定食を食べに行こう。

精神異常⑦~精神障害と向き合う②~


あの日からずっと考え続けている。

「私はいったい誰なのか?」

「私の中にいる私たちはいったい誰なのか?」

意識とは、言うまでもなく記憶の連続保管機能の役割を果たしている。

連続した記憶は意識となり、意識の連続はやがて自我となり、それは私たちの人格を形成する大切な役割を果たす。

それにもかかわらず、私はどういうわけか時々記憶が分断してしまい、別の人格が私にとって代わり、私とは違う意識で私の役割を演じている。

考えれば考えるほど、私の思考は果てしない螺旋階段の渦に飲み込まれていく。

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私はたしかにあの日、自分の目の前に小さな自分が現れ、
自由意思ではなく―、まるで操り人形のように彼に導かれ、黄金色の階段を降り、夢の中に吸い込まれていった。

(参考:【精神異常⑤~デジャブ体験とタイムトラベル~】)

子どもの頃に見た夢は、あの頃感じた恐怖を私の脳内に投影し、気がつけば私はあの夢の中にいた。しかし、それは夢ではなく紛れもない現実世界だった。

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私がかつて夢で見た場所、子どもの頃に住んでいた夢の中の空間は、距離にして日本から5,200km以上、時間にして約35年も先にある未来の現実世界だ。

しかし、私の意識はすでにあの時、あの場所を訪れ、あの出来事を体験することを予め決定していた、それは今までの私の人生に自由意思はなかったと確信した瞬間でもあった。

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あの日、あの夢をきっかけに、私の自我はボンヤリと少しずつ分岐していき、再び見たあの夢をきっかけに、今度は私の
自我はボンヤリと統合しかけている

それでは、今までの私の人生は、いったい何だったのだろうか?

私が私であるという意識、その自我について考えてみたい。

***

【意識とは何か?】

一般的に意識とは、人間の行動を決めている高次元な存在、意思判断の最終決定機関であると考えられている。

私という存在は、私の意識が支配している。

さて、本当だろうか?

実は私たちが考えている常識のほうが間違っているかもしれない。

慶應大学の前野教授によって提唱された考え方である『受動意識仮説』というものがある。

それは、私たちの意識は、脳の活動の結果生みだされた「受動的な幻想」であるにすぎないというものだ。

*

受動意識仮説

私たちは普段、日常生活の中で活動し、普通に生活していても膨大な情報を脳が受け取り、処理をしている。

それらは私たちの意識の中で処理され、情報が統合されていき、その結果、私たちは一貫して連続した意識を持つことができている。これは一般的に言われている意識の捉え方だ。

これに対して受動意識仮説では、あらゆる情報処理は、すべて意識とは無関係に処理され、無意識の中で情報処理が行われているという仮説だ。

すなわち、意識とはその処理結果のうち、特定のものだけを選び、後から観測しているに過ぎないということになる。


私たちの脳は無意識(脳の中にいる小人たち)で行われる処理のうち、強く反応した処理結果のみを後から観測しているに過ぎない。

当然ながら、私たちの意識は脳内でそんなことが起こっていることなど知る由もない。

だから、私たちの意識はあたかも自らがそう思ったかのように、まるで自分がそれを体験していたかのように錯覚してしまう。

つまり、私たちは自分自身では何もしておらず、実は私たちの意識は、1テンポ遅れでそれを認識するだけの、ただの観測者だったということになる。

*

意識の正体とは?


ここである疑問が生まれる。

結局、すべての情報処理が無意識下で行われているとしたら、「意識はいったい何のためにあるのだろうか?」、ようするに「人間に意識など必要ないのではないか?」と。


これについて、受動意識仮説では「エピソード記憶」が関連していると説明する。

エピソード記憶とは「いつ、どこで、だれと、なにをした?」といった個人的な経験、あるいは思い入れのある事柄などをさす。

エピソード記憶ができるのは、人間を含む一部の生物だけのようだ。エピソード記憶は、個人的な記憶や思い出の記憶であるため、そこには当然ながら「」という主体を必要とする。

私たちは日々、多くの経験をし、その多くは
その場で意識にあがらず、無意識に行動を取っている。したがって、これはエピソード記憶にはなり得ない。

しかし、無数の情報の出力結果の中から特定の出来事が選ばれ、主体を持って体験したものはエピソード記憶となり得る。

これらの出来事を観測してエピソード記憶にもっていくもの、これこそが私たち「意識」の正体ではないか?と考えられている。

つまり「自分」という意識は、「私」という物語を記録し続けた結果、まるで私が自分であるかのように錯覚してしまっているということだ。

なるほど、たしかにそう考えれば、私とは幻想だったのかと腑に落ちる。

***

リベットの実験~自由意思の否定~

しかし、これだけでは納得がいかない。

なぜなら私たちには意識の他に、自らの「意思」があるからだ。

これは紛れもなく私という存在が体に命令を出して行動させているようにも見える。

では、やはり私という意識は存在するのではないか?

しかし、この意思の存在すらも否定する実験結果がある。



アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット氏は、私たちが自分の意思で指を曲げるときに、

①「指を曲げようと意図するタイミング」

②「脳に信号が発生するタイミング」

③「指が動くタイミング」

それぞれがどういう順番で起こるのかを調べる実験を行った。

実験方法はまず、被験者の脳に電極を指し、脳の電気信号を読み取れる状態にする。

その状態で被験者に丸の中を移動する点を見てもらいながら、自分の意思で指を曲げてもらう。

そして被験者が指を曲げようと意図したときに、〇がどこにあったのかを後で申告してもらうというものだ。

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多くの人が予想するのはおそらく、以下のようなものだろう。

①「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」

②「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」

③「行動する―指が動き始める―」

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画像引用:Wikipedia「リベットの実験

しかし、実験の結果は衝撃的なものだった。

①「脳が命令する―脳に電気信号が発生する―」

(0.35秒後)

②「意識する―自分の意思で指を曲げようと思う―」

(0.2秒後)


③「行動する―指が動き始める―」

つまり、この実験からわかることは、私たちが何かをしようと決める前に、すでに頭の中で決定がなされていて、その決定を後から私という意識が確認しているということを示唆している。

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画像引用:「自由意志の三要件と脳科学との関係 -John―Dylan Haynesの研究を中心として(上)

これにより意識とは、私たちが思うような絶対的な意思の決定機関ではなく、ただの脳の観察者にすぎないことが明らかになったのだ。

このことから、意識とはただ単に脳の処理結果を観察しているだけのシンプルな存在だといえる。

この結果は、現在科学技術の分野で研究が進んでいる人工知能に意識を宿らせるための大きなヒントになるかもしれない。

***

【意識はどこにある?】

東大の薬学系研究科の池谷教授はいう。

科学で自我や意識を解き明かそうとすること自体、大きな勘違いかもしれません。



脳研究が進歩して、脳の機能はある程度わかってきている。

しかし、自我の機能を担当する場所はまだよくわかっていないのが現状だ。私たちは自我を強固な存在だと思い込んでいるが、実は、とても脆弱なものであるということだ。

たとえば、寝ている間、夢を見ていない時は、自我は消えている。また、麻酔にかかっている時も、私たちから意識が消失している状態だ。つまり、―逆説的だが―、麻酔薬の作用する場所を見つければ、私たちの自我や意識をつくり出す場所を発見できるのではないか、と真剣に考えている研究者もいる。

麻酔薬は脳のどこに作用して意識をなくしているのか、実は未だによくわかっていないそうだ。動物実験や臨床実験などを繰り返し、安全性に問題がないから使っているだけで、詳しい仕組みは不明である。

「なぜ効くのかよくわからないけど、いつもどおりこれを使おうか」

よく考えたらとんでもないことが、病院の手術室では日常的に行われていることになる。薬剤自体は化学物質であるため、化学構造式を見れば、薬剤ごとに特徴的な化学構造を発見することができるだろう。同じ症状に効く薬の化学構造式はどれもよく似ているため、薬品名を見なくても化学構造式を見れば何に作用する薬なのかわかるものも少なくない。

一方で、麻酔薬(麻薬)も様々な種類のものが使われているが、化学構造式に共通の構造というものがない。このことからも、麻酔薬がいかに特殊な薬であるかがわかる。

数年前に、麻酔薬が作用しているのは神経細胞ではなく、グリア細胞(※中枢神経系を構成するニューロン(神経細胞)以外の細胞のこと、神経膠細胞とも呼ばれる)のアストロサイトではないかと主張する研究者が現れた。

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画像引用:一般社団法人 日本生物物理学会グリア細胞

多くの人が、麻酔薬が作用するのは神経細胞だと思い込んでいるかもしれないが、実は麻酔薬を注入しても神経細胞は活動しているのだそうだ。麻酔薬で神経活動は止まらないのだ。

*

視覚系における情報処理に関する発見

有名な話では、1981年にノーベル医学•生理学賞を受賞したデイヴィッド•ヒューベルとトルステン•ウィーセルの実験がある。



2人がネコの脳の中で、視覚情報がどのように処理されているのかを解明した画期的な研究なのだが、実は当時の実験では、ネコには麻酔がかけられていた。

麻酔で意識がない状態にもかかわらず、実験では脳の中で視覚情報がどのように処理されているのか、そのしくみを解き明かすことができたのだ。


では、その麻酔下にあるネコは見えているのだろうか?少なくとも視覚野の神経細胞は、麻酔がかかっていても反応は停止しない。

ところが驚くことに、グリア細胞の反応は麻酔をかけると止まってしまうのだ。麻酔薬に敏感なのは、実は神経細胞ではなく、グリア細胞なのだ。

こうしたことを根拠に、グリア細胞に意識があると考えている研究者もいるそうだ。

*

時間とはヒトが創り出した幻想にすぎない

時間は、物理時間と心理時間の2種類に分類される。

物理時間とは「この宇宙空間に流れて
いるとされる時間のこと」、心理時間とは、「私たちが各々個体の中で感じる時間の流れのこと」をいう。

心理時間はあっという間に過ぎたり、ゆっくり過ぎたり、物理的な時間と必ずしも一致しない。通常、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦痛な時間は時間が経つのを遅く感じる。

ヒトの時間の認識は、記憶によって発展してきたと考えられている。私たちは時間の経過を、様々なものの変化によって見出している。もし世界がまったく変化しなかったら時間を感じることはできないだろう。

変化に気づくとは、違いを見つけ出す作業だ。それ以前の状態を「記憶」していないと、ものが変化したかどうかを判断することはできない。つまり、記憶がないと、時間の経過を感じることができないのだ。そして、ヒトは記憶を通じて 時間の概念を創造し、心理時間を感じるようになった。

たとえば言語は、過去・現在•未来を厳密に区別する時制を持っている。これは、ヒトの意識が時間、特に過去• 
現在•未来の区別を重要なものと感じてきた証拠である。

興味深いことに、世界には時制のない言語があるらしい。過去系や未来形は存在せず、現在系しかないのだそうだ。「今」こそがすべてという楽観的な考え方なのだろうか。

過去を振り返っても後悔しかない、未来のことを考えても不安しかない。実は「過去も未来もなく、今この瞬間が延々と存在しているだけなのだ」、とするアドラーの心理学な捉え方であり、私は個人的にはこの考え方が好きだ。

***
 
【この世界はホログラムによる仮想現実なのか?】

この世界がもし仮想現実(VR = Virtual Reality)だったとしたら?

テスラ社、SpaceX社のCEOであるイーロン・マスク氏によれば「この世界が仮想現実ではない確率は100万分の1であると」いい、天才物理学者の故スティーブン・ホーキング
博士によれば、「この世界が仮想現実である確率は99%である」という

この世界、そしてその中にいる自分は、いずれもホログラム映像に過ぎず、現実に実在しているわけではないのだという。この世界は、ソース(すべての源)という映写機によって映し出されている映像であり、それは幻想であり、ホログラム映像に過ぎないとするものだ。

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したがって、この世界に在るものは全てが仮想現実であり、ある対象に自らが注意を向け続けるときだけ、そのものが存在するようになるということを意味する。

私たちが今いる空間、見ている景色は私たちが意識している時間だけ出現し、
私たちが意識していない時間、認識していないものは、それらは存在していないようなものだ。

何とも意味不明だが、ゲームの世界に置き換えて考えてみたらいい。VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の遥かかなたにある空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。

あなたはニューヨークの自由の女神を見たことがあるだろうか?

あるいは、パリのエッフェル塔を見たことがあるだろうか?

今この瞬間、東京でこのブログを読んでいるあなたにとって、それらは存在していないのと同じことだ。

私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。


*

バートランド•ラッセルによる世界5分前仮説

哲学者のバートランド•ラッセル博士は「世界5分前仮説」を提唱した。

彼が主張したのは「この世界が5分前に始まったかもしれない
という仮定を覆すことができるか?」というものだ。

これは奇妙な仮定のように聞こえるものの
、実は私たちはこの仮定を確実に覆す手段を持っていない。なぜなら、自我もこの世界もすべて、個人の「記憶」に全面的に依存しているからだ。

あなたは「5分以上前の過去の記憶
を持っている」と思うかもしれないが、あなたのその記億は実は5分前にどこかから移植されたものかもしれない。その記憶が、どれほど鮮明な現実味を伴っていたとしても、「そう実感されるように慎重に植え付けた」と説明されれば、もはや反論のしようもなくなってしまう。

私たちの記憶は脳に刻み込まれていて、この世界を認識するのも、また脳である。ゆえに記憶を操作されてしまえば、5分前につくられた世界に何十年も住み続けていると思い込んでしまうことは、たしかに思考実験として矛盾は起きないのだ。

こうした単純な思考実験で、私たちが確固たるものとして信じている世界は、いともたやく揺らいでしまうくらい「私」は不確実な存在であるし、逆に、時間や自我がいかに記憶に依存しているかということを象徴しているともいえるだろう。



何者かが私たちの意識を初期設定し、例えば勉強が得意だとか、スポーツが得意だとか、もっと根本的に男女の設定やら数十年後に子どもが生まれるなどの設定をする。

設定を決めたらようやくゲームスタートだ。

「随分とリアリティーのあるゲームだ。そんなゲームがあるなら、ぜひプレイしてみたい」

そう思われたゲーマーの人も多いかもしれない。

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しかし実は今、私たちは超高度な能力を持った何者かが初期設定をしたゲームの中にいる。私たちは仮想現実であるこの世界を快適に楽しむために、脳という高性能なコンピュータを使ってプレイしている。

その
高性能なコンピュータは処理落ちを防ぐために、―シミュレーションゲームと同じような仕組みで―、それを見ていない間は存在しないものとして扱っているのだ。

もう一度言おう。

VRゲームにおいて、私たちが見渡せる360℃の視界以外の空間は、その時、負荷がかからないようにデータの処理を抑え、そこには投影されていない。

私たちが見ているものは、私たちが見ている間、私たちが見ているから存在しているのだ。

行ったことがあるから自由の女神やエッフェル塔が今この瞬間も存在しているわけではない。

私たちの脳は記憶に基づいて現状を把握することを常識としている、だけどもしこの世界の初期設定で
自由の女神やエッフェル塔を設置し、あなたという人間に「自由の女神やエッフェル塔に行ったことがある」という設定をして5分前に誰かがゲームをスタートしてこの世界が始まったという説を、誰も否定ができない。

過去は今の積み重ねだというのは「仮想現実だと見破られないため」で、過去や思い出はただのデータ、つまりゲームの初期設定かもしれないというわけだ。

しかし、この世界がバーチャルゲームだったとしたならば、必ずどこかにバグが生じるはずだ。

*

デジャブ(既視感)は初期設定のバグであるという説

実はそのバグの正体こそがデジャブ(既視感)ではないかと言われている。デジャブ(既視感)とは一度も見たことがないのに、既に見たことがある気がする不思議な現象のことをいう。

私たちが住んでいる(と考えられる)このバーチャル世界で、予め設定されたシミュレーションどおりでなく、初期設定にないものを認識する機能である。

一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。

過去の体験は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は過去に実際に体験したという確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なる。デジャヴは神経の“通り道”が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因するものである。


(省略)

記憶喪失や夢などのギミックと組み合わせて、物語の伏線として利用されることもある。

既視感=バグ説は映画マトリックスでも劇中に書かれており、仮想現実を再構築した時に発生するズレだと考えられている。

ようは私たちの人生をプログラミングした後で、退屈になって超高次元の能力を持った作成者がゲームの初期設定を突然変えてしまったようなものとイメージしてほしい。

私が体験したデジャブ(既視感)は想像を絶するほどの物語だった、あの経験がなければこのブログをこんなに深掘りして書くこともなかっただろうから。

あの日、私の過去のトラウマがキレイに1本の線でつながった。

デジャブ体験は、私の人生にとって非常に良い意味で大きな影響を与えることになった。

*

私1:「ん???ちょっと待って。ここはもしかしたら、、、夢の中じゃないかもしれない。」

私2:「夢だよ、ここは!何言ってんだよ、オレが朝っぱらから雨の中を全力ダッシュするわけないだろ」

私は、恐る恐る自分の左腕を掴んで思いっきりつねってみた。めちゃくちゃ痛い、たしかに肉体があるのを感じる。空に手をかざすとパラパラと雨を感じる。

ということは.....

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ここは夢じゃない!!私たちは今、夢で見た景色の中にいる...。


***

私たちに内在する多重人格者である自我

私たちは、自分が意識をして体を動かしていると思いがちだが、決してそんなことはない。 

私たちは日々、無意識のうちにたくさんの活動を行っている。
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たとえば、カフェで友人と話をしている時でも、しゃべりながらコーヒーを飲んでいるし、次に何を話そうかと頭の中で考えている。

さらにいえば、私たちの生命を維持している呼吸、心拍、体温の維持などもすべて無意識のうちにコントロールされている。

意識によって、自分のすべてを制御しているという考えは、完全に勘違いだ。人間にはたくさんの自己が同居し、常に複数の事柄を並行して処理している。しかも、ほとんどの事柄は意識(エピソード記憶)にはのぼらずに、無意識のうちに処理されている。

さまざまなことを同時にやっている「多重人格者の私」が自我を持つためには、「自分は1人しかいない」と意識上で勘違いすることが重要なのかもしれない。

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***

【おわりに】

私は先日、強烈なデジャブ体験によって、数年ぶりに非常に強い解離性障害を発症した。

それは、私の人生の衝撃度ランキングでダントツでトップクラスの出来事となった。

その後、どういうわけか幼い頃に分裂した人格が統合したり、記憶を共有できない別人格の私とも記憶をかすかに共有できたり、また、それまで受け入れることができなかった精神障害をようやく受け入れることができるようになった。

私は今、経験した出来事を思い出せるかぎり詳細に書き残している。

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現在、私にはいくつかの自我(意識)があり、それは原則として同じタイミングで出現することができない。
心理カウンセラーによれば、人格の解離は本来の人格を保護してくれる存在なのだという。

なぜこのようにエピソード記憶が複数存在しているのか、解離性障害(多重人格障害)は現代の医学では不明確な部分も多く、治療が困難な障害である。

私が思うに、人間には自由意思はないと思っている。多重人格者に比べて
一般的な健常者は、あまり物事を意識的に深く考える機会は少ないかもしれない。

しかし、私たち人間の脳は、複数の解離人格を持っていると考えている。たとえばお酒や睡眠薬を飲み過ぎて記憶がなくなったとしよう。

意識の連続保管機能が一時的に停止したとしても、自分の家を覚えていて、どうやって帰ったか覚えていなくても、気づいたら家に帰ってベッドで寝ていたというケースはよくあることだ。

つまり、あなたがあなたであるという自我はあなたの顕在意識にはなく、潜在意識下(深層意識下)で脳からの命令によって動いているのだと思う。

単一人格者も多重人格者も顕在意識は1つだ、意識しなくとも水面下では起こった出来事を記憶している。

しかし、決定的に異なる点は記憶の連続機能を果たす意識、すなわち顕在意識が何らかのひょうしに同時並列的に存在してしまうのが多重人格者ではないかと思っている。

こうして考えると、私たちの意識とは、単に脳の命令にしたがって1テンポ遅れで行動する観察者に過ぎず、私が私であるかのように錯覚しているだけではないか、と思うのだ。

人はみな、大なり小なり多重人格者だ、一般的な健常者の顕在意識はそれを気づかないふりをして生活しているだけで、解離性障害を持つ人は、たまたまそれが顕在意識にあがっているに過ぎないのだ。

うん、きっとそうだ。そうに違いない。

(おわり)

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