むかしむかし、ある貧しい家に二人の子どもがいました。
お兄さんの名前をチルチル、妹の名前をミチルといいました。
クリスマスイブの夜に、魔法使いのおばあさんが家にやって来て言いました。
「私の孫が病気でな。青い鳥を見つけて来てくれたら治るんじゃ。どうか青い鳥を見つけてきておくれ」
「うん、わかったよ」
チルチルとミチルは鳥かごを持って、青い鳥を探す旅に出ました。
二人は死んでしまった人たちに会える「思い出の国」、戦争や病気がたくさんある「夜の御殿」、「贅沢の御殿」や「未来の国」にも行きました。
どこの国にも青い鳥はいましたが、捕まえるとみんなダメになってしまいました。
疲れ果てて家路に着いた二人は眠りにつき、お母さんの声で目覚めました。
「さあ起きなさい、今日はクリスマスよ」
チルチルとミチルは結局、青い鳥を捕まえることができませんでした。
二人はふとカゴの中を見ると、飼っていたキジバトの羽根が青かったことに気付きます。
チルチルが言いました。
「僕たち気づかなかったけど、この鳥ずっとここにいたんだな」
メーテルリンクの『青い鳥』の物語のなかで、魔法使いのおばあさんを通して筆者が伝えたかったことは、「幸せはすぐそばにあって、なかなか気づかないもの」ということなのだろう。
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多くの人間がお金を得ようと必死に働く。
ところが、お金は丸い形をしていて、
あちこちに転がっていくため、
なかなか捕まえられない。
みんな必死になって追いかける。
朝から晩まで追いかける。
ある人間はお金のために体を壊し、
ある人間はお金のために家族を失い、
ある人間はお金のために死んでいった。
身近で本当にいろんな人間を見てきた。
みんな幸せになれると信じて、
限られたパイの中から、
お金を必死に奪い合う。
資本主義の真ん中に身を置いて、
転がっていくお金を我先にと追いかける人々。
実に滑稽な姿だ。
もっとも私も翻弄されるプレーヤーの一人なのだが。
自分でお金を稼ぐようになってわかった。
お金は「手段」であって「目的」ではない、と。
人生の選択肢が少し広がるだけのことだ。
それ「以上」でもそれ「以下」でもない。
また、
お金は「善」でも「悪」でもない。
何かを手に入れるために汎用化・効率化された「手段」にすぎない。
お金を「目的」とした人間は、その多くが不幸になっていった。
実家を出てひとり暮らしを始めたころ、私は本当にお金がなかった。
今もあるわけではないけど...
だから、少なくとも「お金がない」というのがどういう状態のことをいうのかを理解しているつもりだ。
あの頃、本当に苦しかった。
惨めだった。情けなかった。
お金がないと心が荒み、他人を妬み、心が平穏でなくなる。
「明日、どうやってご飯を食べようか」
もっと究極の状態は、
「どうやって生き延びようか」という話になる。
「何を食べようか」という贅沢なレベルではなくて、
「何が食べられるか」というレベルの話だ。
だからお金はないよりはあったほうがいいと思う。
なくてもいいなんて綺麗ごとを言うつもりはない。
あればあるに越したことはない。
でも、実際にお金を持つと、今度は失わないように必死になる。
そして、自分よりもお金を持っている人間に対して「劣等感」を覚え、
自分よりもお金を持っていない人間に対して「優越感」を覚える。
人間とはその本性は実にいやらしいもので、
「絶対的」にではなく、「相対的」に幸せを計ってしまう愚かな生き物なのだ。
幸福を求めると満足からは遠ざかり、
満足を求めると幸福からは遠ざかる。
幸福と満足はトレードオフの関係だ。
「絶対的な幸せ」と「相対的な幸せ」
お金との付き合い方もバランス感覚が大事なのだろう。
お金で買えない物は沢山あるが、お金があれば回避できる不幸が多いのも事実だ。
村上龍
昨年、昔お世話になった知人の離婚裁判を傍聴した。
詳しくは書けないが、会社の精算処理でいろいろモメていた。
私は旦那さんも奥さんも知っていたので、何とも居た堪れない気分だった。
法廷というのは、人間の持つ「負」の側面が激しくぶつかり合う、実に嫌な場所だ。
先日、久しぶりに元奥さんと食事をした。
別れ際に彼女が言った言葉が印象的だった。
「嫌なこともたくさんあったけど、あの頃が幸せだったのかしらね...」
見送った後ろ姿がどこか寂しげだった。
青い鳥はなかなか気づかないけれど...
私たちの日常の中にいるのかもしれない。
みなさんもぜひ見つけてみてほしい。
幸せは得たときに実感するものと、
失ってはじめて実感するものがある。
でも、圧倒的に後者のほうが多いと思う。
だからみんなこう言うのだ、
「ああ、幸せだった」、と...
人々が幸せについて語るとき、
その多くは過去形である。