空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
人は生まれ、やがて死ぬ。
私たちに確実に約束された未来、
それは早かれ遅かれ、いつか必ず死ぬ運命にあるということ。
人はいつか死んでしまう...
いったい生きることに意味はあるのだろうか?
いったい生きる意味とは何なのだろうか?
今、たしかに、存在している自分。
自分がここに存在する意味とは何なのだろうか?
存在論のテーマは「なぜ在るのか」を考える問い掛けであり、解答することが著しく困難である。
この問題は、物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極の問い」とも呼ばれている。
「画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
ポール・ゴーギャン(フランスのポスト印象派の画家、1848~1903)
冷たい人間だと誤解を招くかもしれないが、私は「死」というものに対して、割と客観的に考えている人間だと思う。
なぜならば、未だ誰ひとりとして「死」に対して実体験を語った者がおらず、全てが人間の憶測に過ぎないからだ。
そもそも、死を経験することは同時に生を失うことであるから、死の経験を語ることは不可能である。
私はまだ生きているし、好奇心旺盛だからといってとりあえず体験してみることもできない。だから、どこか他人事なのかもしれない。
あるいは、逆に想像を絶するほどの「死」の恐怖が心の中に存在していて、自らを欺くことによって気づかないふりをしているだけなのかもしれない。
ときどき怖い夢を見る。
それは、どこか高い建物のフェンスによじ登って、片足でわずか数cm程度の生と死の狭間でバランスを取っている自分だったり、あるいはもうひとりの自分に追いかけられている夢だったりする。
前者はバランスを崩した瞬間に目覚めるが、後者は逃げても逃げてもいつまでも捕まらないため、永遠に夢の中を逃げ続けるという恐怖がある(たいてい行き止まりで目覚めることになる)。
もし、人間が死の恐怖を真正面から受け止めようとしたら、あまりのストレスに精神が耐え切れず、人格が崩壊してしまうかもしれない。子どもの頃、眠れない夜に延々と考え続けて、発狂しかけたことがある。
ある意味で人間が感情を持っているのは、喜怒哀楽によって「死」に対する感覚を、少しずつ時間をかけて麻痺させるための防衛本能なのかもしれない。
人生は永遠には続かない。
だから、「今という瞬間を精一杯生きよ」、とかつての哲学者たちは言った。
その日を摘め(Carpe diem)
ホラティウス『歌集(第1巻11歌)より』
ホラティウスの歌集の中では、「神々がどのような死を我々にいつ与えるかは知ることは出来ず、知ろうと苦しむよりも、どのような死でも受け容れるほうがよりよいこと、短い人生の中の未来に希望を求めるよりもその日その日を有効に使い楽しむほうが賢明であること」が歌われている(出典:「その日を摘め」Wikipediaより)。
これは「人生は短く、時間はつかの間であるから、今ある機会をできるだけ掴むことだ」、というような実存的な警告として使われている(出典:同上)。
永遠がないからこそ、限られた時間の中で必死に花を咲かせようということなのだろう...
ただ、花を咲かせたのは誰の意思だろうか...
そもそも人間は自らの意思によって生まれたわけではないから、ある意味では人生を強制的に与えられたことによって、余計なことを考える時間が増えたとも考えられるのではなかろうか...
生まれてさえ来なければ、こうして悩むこともなかっただろうに...
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世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
在原業平「伊勢物語」第八十二段より
(この世の中に桜さえなかったら、散ることを心配することもなく、春になっても人々の心はのどかになるのに...)
日本人は本当に桜が好きだ。春になると桜の下でご飯を食べ、お酒を飲みながら楽しく過ごす。
散るまでの僅かな時間、限られたごく僅かな時間のなかで...
日本人の死生観は「桜」の散っていく姿に、たびたび人生の儚さを重ね合わせてきたのだろう。
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かつて、人々は死を恐れ、心の中に「神」を創造し、心の拠り所を求めた。
(ここでは、「神」は存在することも存在しないことも証明できないので省略する)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、世界にはたくさんの宗教がある。
一見すると、宗教というものは、「目的地に到達するための道」はそれぞれ違うけれども、客観的に見れば「行きつく先」=「真理」はどれも同じではなかろうか?
真理とは、すなわち「幸福の追求」...
おこがましく結論を言えば、生きることの意味とは「幸福の追求」ではなかろうか。
生きていると、楽しいこと、嬉しいことばかりではない。
辛いことや悲しいこともたくさんあるだろう。
自らの手で生きる権利を放棄したいと願う人もいるかもしれない。
人は誰もが、幸せになりたいと願う。
給料を上げるために資格を取得して、より良い仕事に就こうと勉強する。
起業をして今よりもたくさんのお金を稼ぐために、必死に働く。
少しでも優れた遺伝子を残すために、より良い異性を選ぼうとする。
自己顕示欲を満たすため、書籍を出版したりブログを投稿する。
どんなことであれ、「目的」には「手段」が存在する。
一見すれば「目標」はどれも違うように見えるけれども、その本質を突き詰めて行けば「幸福を追求するための手段」なのだと思う。
自殺志願者でさえ、自ら「死」を選ぶことによって苦しみから解放されたいと思っている。
これもまた、本質は「幸福を追及するための手段」に他ならないだろう。
多くの人々が手段を目的化してしまい、大切なものを見失っているように思う(時として私自身もそうであるように)。
本来の目的とは何だろうか、目的地が明確でなければ手段を手に入れたところで幸せにはなれない。
目的とはすなわち、自分自身にとっての幸せだ。
それは他人と比較した「相対的な幸せ」ではなく、自分自身の基準となる「絶対的な幸せ」のことだ。
ところが、人間とはその本性は実にいやらしいもので、「絶対的」にではなく、「相対的」に幸せを計ってしまう愚かな生き物なのだ。
人間には欲があって、ひとたび手段を手に入れると、今度はもっと良い手段を手に入れようとする。
今よりも幸せになれると信じて...
その結果、満足からは遠ざかることになる。
幸福を求めると満足からは遠ざかり、
満足を求めると幸福からは遠ざかる。
幸福と満足はトレードオフの関係だ。
お金が欲しい。
名声が欲しい。
異性が欲しい。
ところが、全てを手に入れても、人は必ずしも幸せにはなれないようだ。
富も名声も全てを手に入れたとされるソロモン王でさえ、知識と知恵を用いて人生の目的を思索している。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人になんの益になろう。1つの時代は去り、次の時代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈み、またもとの昇るところに帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込むところに、また流れる。すべてのことはものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは1つもない。
(コヘレトの言葉1・1~9)
彼は、心の赴くままに快楽を受け入れ、あらゆることを楽しんだ。
快楽、富、事業、多くの奴隷、多くの妻...
だが彼は、
すべてがむなしいことよ。
風を追うようなものだ。
(「コヘレトの言葉」第2章・10節)
という。
とはいえ、人生とは決して風を追うように無意味なものであるとはしていない。
彼が最終的に結論付けたのは、惜しみなく他人に与える愛の人生だった。
あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
月日がたってから、それを見いだすだろう。
(「コヘレトの言葉」第11章・1節)
たくさんの富を得た大富豪たちが、最終的に慈善事業を始めるのはこういった境地に至るからなのだろう。
無効と知りながらも良い行いをする。
そこに、見返りや感謝を期待してはならないのだという。
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結局のところ、人生とは、自己満足の追及だと思う。
自分自身と向き合って、「ここが自分にとっての最終目的地だ」と自分で納得できる場所を見出すことができれば幸せなことなのだろう。
自分の本来の目的地に「気付く」ことができれば、きっと幸福感に満ちた余生が送れるのだと思う。
目先の手段を目的化することではなく、もっと遠いところにある最終的な目的地。
それは、自分の持っている価値観を全て凝縮したような、価値観の集大成ともいえるものかもしれない。
だから、「探す」というよりも「気付く」という表現のほうが正しいと思う。
みなさんも過ぎ行く時間の中で、自分自身の本当の目的地を見出してほしい。
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
在原業平「伊勢物語」第八十二段より
(この世の中に桜さえなかったら、散ることを心配することもなく、春になっても人々の心はのどかになるのに...)
誰かが答えた。
散ればこそ いとど桜は めでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき
詠み人知らず「伊勢物語」第八十二段より
(散るからこそ桜は素晴らしいのではないか、この世に永遠なんてものはなく、すべては移りすぎて行くのだ...)
一度きりの人生、人はいつか死んでしまう...
儚いからこそ、人生は美しいのかもしれない...
多くの人々は、
「こんなくだらないことを考えている時間があったら、もっと働きなさい」と言うかもしれない。
だけど、これはしょうがないんだ。
「くだらないことを苦しみながら考える文化的な時間」こそが、私にとっては幸せなのだから。
一生、人の務めは痛みと悩み。
夜も心は休まらない。
これまた、実に空しいことだ。(「コヘレトの言葉」第2章・23節)
全てを得た人間であっても、私たちと同じように人生を苦しみながら生きていたようだ。
人生とは、自己満足の追及である。
ヒマ人は最高だ、私はたぶん幸せな男なのだろう。