人間というのは、生まれた時は誰もがいびつな形をしている。
赤ちゃんは言うことを聞かないし、意思の疎通ができないので大声で泣いて周囲の大人たちに必死に自分をアピールしようと努める。
いわば、彼ら/彼女たちはこの世界の支配者だ。
ところが学校に通うくらいの年齢になると、教育という名の洗脳が施され、社会にとって都合のいいように最適化されていく。
言葉を学び、大多数の人間と意思疎通が取れるような汎用化された伝達手段を身に着ける。
数字を学び、お金という汎用化された商品の交換方法を学び、社会の中で生きるための知識を身に着ける。
集団行動を学び、今までの「私的空間」に加え、「公共空間」という概念を学び、「建て前」や「協調性」という社会的特性を身に着ける。
こうして考えてみると、学校という場所は、「長方形」を「正方形」に、「楕円形」を「円形」に修正する加工品工場といったところだろうか。
画像引用元:「Pressies and Musings From My Midnight Garden」
やがて、全ての人間は数値化され、試験の点数によって弾き出された「変数」によって社会の適切な配送先へと出荷するための準備に利用される。
すでに最適化された大人たちの手によって...
ここで子どもたちは必ずしも世の中の全てが自分の思い通りにならないことを学び、「一般常識」という見えない鎖で縛り上げられ、ある程度の形に均一化された状態で社会へと出荷されていく。
そして、均一化できなかった人間は「社会不適格者」という不名誉な烙印を押され、社会から疎外されていくことになる。
今はデジタル社会だ。
表計算ソフトに関数を打ち込んで「最適化(オプティマイズ)」ボタンをクリックすると、過去のサンプル(標本データ)を使って、最も良い結果を瞬時に返してくれる。
私はこの機能を始めて使ったとき、
「学校ってこういう場所だったのか!」
とピンと来た。
現代社会においては、すべての人間の価値は数値化され、平均化され、平均からの距離だけで人間の価値を評価する仕組みになっているではないか。
裏返せば、数値化できない部分は全て取り除かれてしまうわけだ。
これを標準偏差(≒偏差値)を使った比率で表すと、平均±10%、平均±20%、平均±30%、のように、平均から近いほど「普通」とか「常識」というグループにカテゴライズ(分類)され、
それとは逆に、
平均から遠くなるほど「優等生」や「劣等生」という両極端な異端グループにカテゴライズ(分類)されることになるわけだ。
画像引用元:「Metrology: The Science of Measurement」
この意味では、赤い部分に属する「優等生」も「劣等生」も異常値ということになる。
なるほど!長年のもやもや感がやっと晴れた気がする。
日本人社会でよく使われる、「出る杭は打たれる」という表現は、
「平均から外に向かおうとする膨張力」>「平均に向けて最適化しようとする引力」
↓
「平均から外に向かおうとする膨張力」<「平均に向けて最適化しようとする引力」
上記のように不等号を逆転させようとする綱引きのようなことを言うのだろう。
勘の鋭い方はおわかりだと思う。
「平均から外に向かおうとする膨張力」 →「出る杭」
「平均に向けて最適化しようとする引力」→「大衆心理」
ということ。
大人たちにいい具合に最適化されてきた素直な子どもたちも、中学生くらいになると思春期を迎えるが、おそらく、最適化しようとする大人たちの引力に、必死に抵抗する膨張力が最大限に達する時期なのだろう。
大人たちはこの症状を「反抗期」と名付け、子どもたちの対応に四苦八苦させられることになる。
その後、子どもたちは社会の中で自らを受け入れられるように自分自身を演じるように躾られる。
大人たちは、この自己欺瞞を都合のいい「建前」という概念に摩り替えた。
学校は社会の縮図と言われるが、社会に出ても使われる尺度は結局何も変わらないという事を日々実感させられる。
私もいまだに反抗期なので...
平均とは、山を崩し、谷を埋めた結果、真ん中を通る1本の直線によって表される概念にすぎない。
私たちはこれを「普通」とか「常識」と表現する。
平均からの距離だけで物事の概念(この場合は人間の価値)を判断すると、個々のデータの持つ個性そのものを見落としてしまう危険性がある。
上記の最適化を究極のレベルまで引き上げると、カーブフィッティング(オーバーフィッティング)と呼ばれる、現実社会でほとんど機能しない机上の空論モデルになってしまう恐れがある。
「常識を疑え」、と言われる。
たしかに、最適化は非常に便利な機能だ。
しかし、「学校」や「社会」という名の表計算ソフトに組み込まれた計算式そのものが間違っていたらどうだろう?
最適化はすべてのデータの平均を中心に考えられている。
平均は「普通」や「常識」と表現される。
最適化という教育を受けた人間は、最適化された「はず」の社会を作った。
いや、その逆か?
最適化された理想の社会を作るために最適化という教育制度を作ったのか?
それにもかかわらず、現代社会という、多くの人間がこれほど思い悩み、苦しみ、自殺者が絶えないのはなぜなんだろう?
もしかしたら、最適化をするための計算式がどこか間違っているのではないだろうか?
正しいとされているものが、実は正しくなかった。
そんなケースは身近にもたくさんあるだろう。
見てきた物や聞いた事
いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう
(THE BLUE HEARTS「情熱の薔薇」)
「長いものには巻かれろ」ではなく「巻かれたふりをしろ」が正解かもしれない。
ひょっとしたら、私たち個々の持つ普通は、最適化された「はず」の社会の普通という概念からズレているかもしれない。
果たして、それは恥ずかしいことなのだろうか?
それを意図的に隠すことを要求される「建前」という社会の仕組み。
嘘と欺瞞に満ち溢れた、この息苦しい社会は私たちから「自分らしさ」を取り除いて行く。
今一度、ゆっくりと本来の自分と向き合う時間を作ってみてはどうだろうか?
もっと自分らしく生きてみてもいいのではないだろうか?
恥を忍びつつ、恥と向き合いながら...
画像引用元:「polyvore」
※追記
数値化できない部分を無理やり評価すると客観性がなくなることは事実。その点、学力試験だけで人物を評価することの有意性は理解しています。
私が言いたいのはそこではなくて、社会の違和感に対しての問題提起です。