日本人は同調圧力に弱く、他人と同じ行動を取りたがると言われる。このように多数派にまわり、少数派を集中攻撃するという集団心理は、多くの強迫性障害者を生み出し、やがて全体主義の土壌を育んだ。

私はこうした文化的背景には、小学生時代の体育の授業でやった長縄跳びに原因があるのではないかと思っている。はっきり言おう、あれは文部科学省から派遣された体育教師によるファシズムだ。今すぐやめたほうがいい笑

長縄跳びの終わりは実に切ないものだ。必ずクラスメイトの誰かが足を引っかけてゲームが終わる。子どもたち全員がうまく跳べないと先生は気が済まないので、失敗したら初めからやり直しをさせられる。長縄をまわす2人のクラスメイトは段々イライラしてきて、その空気はクラス全体に波及する。私たちは連帯責任のもとに、周囲を暴れまわる恐怖の縄から抜け出すことは許されないのだ。

(アレアレアレ、イマナワニヒッカカッタヤツハダレダ?)

やがて子どもたちの精神は殺伐としていき、縄を踏んでしまったクラスメイトは誰なのか犯人捜しが始まる。失敗してしまったクラスメイトには「ドンマイ、もう1回だ。次はがんばろうぜ」と言いながら、心の中では無言の集団ヒステリーが増幅し、うまく跳べなかった子は無言のプレッシャーにさらされ、精神的に追い詰められていく。

(オイ、ワカッテルヨナ、ツギハミンナニメイワクカケルナヨ)

長縄跳びの本質は誰かが犠牲にならないと終わらない残酷なゲームだ。私たちの誰もが縄に引っかからないように細心の注意を払い、自分以外の誰かが引っかかると、心のどこかで安心感を覚える。自分が犯人にならずに済んだからだ。私たちは長縄跳びの授業を通して人間の心に内在する二面性を学ぶことになる。

こうして日本人は子どもの頃から全体主義の精神を無意識に刷り込まれ、失敗した人間に怒りの矛先を集中的に向けさせる攻撃技術の英才教育を受ける。そして子どもたちは精神障害を抱えたまま、やがて大人になり、社会に放り出されていくのだ。

(シッパイスルトミットモナイカラリスクヲトルノハヤメトコウ)

長縄跳びはまさに日本社会の縮図そのものだ、不届き者は制裁される運命にある。

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・人生初のロックダウン(国境封鎖)を経験、移動制限令により強制自宅待機

3月16日の夕方、秘書からグループチャットにメッセージが飛んできた。

「先ほどマレーシアではロックダウン(国境封鎖)が決定しました、明後日18日から国境が封鎖され、同時に国内でもMCO(Movement Control Order=移動制限令)が発動されます。期限は月末までの2週間、食べ物と飲み物を今から十分に買って、しばらく家から出ないでください。不要不急の外出により移動制限命令に従わないことが判明した場合、「最大6ヶ月の禁固刑」、「1,000リンギット(≒226米ドル)の罰金、またはその両方のペナルティが課されます、わかった?そんじゃ、がんばってね!」

おいおい、ちょっと待て。あと1日と数時間しかないぞ 

マレーシアという国はとりあえず何事もやってみて、全体のバランスを見ながら軌道修正とリバランス(バランス調整)をしていく国なので、マレーシア国民、この国に滞在する外国人はいつも政府に振り回されながら強い心を育んでいく。慣れとは怖いもので、私もすっかりこの国の文化に対する免疫ができてしまったようだ。私は急いでコンドミニアムを出てカップラーメンとスナック菓子を大量に買い込んで自宅待機に備えた。

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3月17日、ロックダウンが数時間後に迫るクアラルンプール。ほとんど食糧がない棚の様子。

当初、3月18日から3月31日までと言われた移動制限命令はその後2週間の延長が決まり、4月14日まで延長された。マレーシア政府はそこから2週間の延長を決定し、4月28日で終了予定となった。その後、さらに2週間の期限延長がなされ、5月9日まで当該規制が適用されることが決まり、さらには5月10日から6月9日まで1か月の期限延長が決まった。

一体いつになったら終わるんだよ  

当初MCO期間: 3月18日から3月31日まで
MCO延長期間: 4月1日から4月14日まで(※3月25日政府発表)
MCO再延長期間:4月15日から4月28日まで(※4月10日政府発表、市街地にマレーシア軍投入)
MCO再々延長期間:4月29日から5月10日まで(※4月25日政府発表)
MCO再々々延長期間:5月11日から6月9日まで(※5月9日政府発表、一部業種の営業再開へ緩和措置)

なお、最初の2週間で命令に従わない「不届き者」のマレーシア人があまりにも多かったため、2回目の延長期間中からマレーシア軍が街中にバリケードを設置し、物理的な強硬手段に出た。余談だが、この命令を無視して逮捕された人数は4月末までに18,000人に上るという。おいおい笑

本来、経済が瀕死状態のマレーシアでは、MCOの解除は5月10日を以て終了するはずだった。しかし、MCOの延長を望んだのは政府ではなく、今度はマレーシア国民のほうだった。

5月に入り、SNS上では「なぜ今このタイミングで緩和をするのか?」「経済活動を再開させたら、あっという間に第二波が来るのではないか?」と言った非難の声が殺到し、市民の声は政府が想定していた以上に強く、期限延長を強く望むオンライン署名はわずか数日で45万人以上に達したという。

これを受けてムヒディン首相は5月10日、「マレーシア連邦はこのままでは建国以来、最大の経済危機を迎える。ただちに経済活動を再開させないと国家そのものが死んでしまう。しかし、国民の皆さんが政府に合理的な措置を執り続けることを望んでいることもよくわかった」と述べ、MCOを大幅に緩和し1カ月の延長を決定、6月9日までMCOを延長することを正式に発表した(※現在は条件付移動制限令であるCMCO=Conditional Movement Control Orderを実施している)。



マレーシアの首都クアラルンプールでは現在、明らかに実体経済が疲弊していて、瀕死の状態だ。決して裕福とは言えない小さな商店を営む自営業者たちは、必死で生き延びているだろうことが想像できる。渋滞が風物詩と自虐ネタにされているクアラルンプールの幹線道路は、現在ほとんど車が走っていない状況だ、いかにヒトの移動が減っているかがよくわかる。

なお、この状況下でも、テーブルを並べて営業する店はむしろ少数派で、ほとんどの店は持ち帰りか配達サービス(東南アジアではGrab Food、Food Pandaというサービスが普及している)の対応に留め、自粛を継続している飲食店が圧倒的に多い印象だ。私も少しでも店が潰れないように万遍なく配達注文をし、僅かながら経済に貢献している(つもりだ)。



このように、マレーシアでは政府が国家権力を発動し、領土内に生活する私たちは問答無用で移動制限を受け、自宅待機を強制されることになった。そして、政府は経済状況が悪くなると経済活動の再開を打診したが、今度は国民が反対して政府は半自粛を提案、自粛派と緩和派の折衷案を採用していったん落ち着きを見せた。

人間の行動心理というのは、どうやら身の危険を感じると、お金よりも安全を最優先する生き物らしい。

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・民主主義のコストとは?

ヒトが動けば感染者が増える、ヒトが動かなければ経済が死ぬ。このトレードオフ(利益相反)の均衡点を模索しながら、どこの国の政府もコロナウィルスの対応策に手を焼いているようだ。

3月中旬あたりからアメリカやヨーロッパ諸国では軒並みロックダウンを開始、国境を封鎖し外国人の入国を禁止、領土内にいる国民には自宅待機を強制し、集団感染の封じ込めを行った。

3月24日の夜、日本政府は7月24日から開催予定だった東京オリンピックの1年延期を正式決定した。なるほど、この最終決定を待っていたために日本の対策が後手後手に回ってしまったのか。

しかし、この時点で日本政府は何も動かず。

そうなると、次に考えられる理由は経団連からの強い圧力だったのだろうか。日本の企業は3月31日が期末の会社が大半となっているため、期末決算が大幅にマイナス方向に下振れすることを懸念、4月以降にズレこむのだろうと思っていた。

しかし、、、。

日本政府が外出自粛要請を出したのは、それから1週間が経過した4月7日だった。日本は法制度で私権の制限を認めていないため、ロックダウン(国土封鎖)や国民の移動制限を実施できず、法的拘束力を持たない「外出自粛要請」というよくわからない形で実施された。決定の理由は「国民の皆様からの強い要望があり、政府としても感染拡大を防ぐ必要があると判断したため」だという。

もっとも、国民の要望で自粛したとなると、後から日本国民が高い道徳性のもとに勝手にやったことにされてしまいそうだが...。

物事を善悪や白黒で判断する二元論は、時として悲劇的な集団ヒステリーのトリガーを引いてしまう。

この外出自粛要請はコロナウイルス感染拡大防止のために、外出や営業の「自粛」が広く要請されるようになり、感染者や医療従事者への嫌がらせや、営業を続けるライブハウスや飲食店に苦情の電話を入れたり張り紙を貼るなど、いわゆる「自粛警察」といわれる歪んだ正義のもとに同調圧力を求める自警団を誕生させた。

自粛警察を生み出した原因は、日本人の潜在意識に備わったゼロリスク症候群だろう、長縄跳びのように縄の中の掟から逸脱した「身勝手な」振る舞いは問答無用で集団的制裁のターゲットにされてしまうのだ。これは決して偶発的な現象ではない、本来私たちのDNAに備わっていた歪んだ正義感が一気に表面化してしまっただけのことだ。

ここからわかる客観的事実は、-日本人はあまりにも極端な例だが-、人間の行動心理というのは、どうやら身の危険を感じると、お金よりも安全を最優先する生き物らしい。多くの人が経済活動を止めてでも自粛をするように政府に強権の発動を求めた。しかし、これはよくよく考えてみればおかしな話だ。だってこれは本来独裁主義の考え方なのだから。

2010年から2012年にかけて中東でアラブの春(独裁主義体制への反政府デモを起こし、民主化を求める機運が高まった運動)が起こった時に、私たちの多くはニュース報道を見ながら歓喜したはずだ。私たちが歓喜した理由は、潜在意識の中にどこか「民主主義:善 VS 独裁主義:悪」という二元論の構図があるからだろう。

今はどこの国も強いリーダーのもと、独裁的な雰囲気が求められているように思う。ただし、民主国家からは強いリーダーは制度上誕生することはできない。民主主義国家の最大の欠点は選挙によってリーダーが決まるため、2つの異なる意見が存在する場合、どちらかに偏った政策をしてしまうと次の選挙で支持者の半分が減ってしまうリスクがある。したがって、どちらの意見もバランスよく取り、双方に忖度しながら国家運営を行っていかざるを得ない運命にあるのだ。

このように民主主義は実は非常にコスト(維持費用)がかかる制度だということがわかる。それは仕組みを維持するための費用と、物事を決定するまでの時間(タイムコスト)だ。これとは反対に独裁主義はトップリーダーである独裁者の言うことが絶対の正義であり、物事を決定してから実施するまでの時間はトップダウンであっという間に実現できる。

もちろん、どちらにも一長一短がある。民主主義は相対的正義に基づいて決定がなされるため、少数派が牽制効果を持ち、結果として大きな失敗をするリスクは少ない。その一方、独裁主義は絶対的正義に基づいて決定がなされるため、トップリーダーの方向性が間違っていた場合、全員が道連れにされる運命にある。ようはリスク・リターンのボラティリティ(変動率)の問題だ。ケースバイケースではあるが、前者(民主主義)は相対的にローリスク・ローリターンな制度であり、後者(独裁主義)は相対的にハイリスク・ハイリターンな制度ということになる。

これまで民主主義国家と言われた多くの国でも、感染予防や治安維持という名のもとに、国家が私権を制限するケースが多く見られ、結果として市民はそれを受け入れているようだ。しかし、「国家による私権制限の必要性」と、「民主主義という観点から見た私権保護の必要性」、これらの両立は極めて難しいバランスの上に成り立っており、二元論で白黒つけることはできない問題だと思う。

a. 国家が私権を制限し、人々の移動制限を行い、人々の行動を監視し、伝染病に対応する社会
b. 民主主義が私権を保護し、人々は誰からも強制されることはなく、移動の自由が保障される社会

さて、果たしてどっちがいいのだろうか。

当たり前だが、世の中に絶対の正解は存在しない。

「自由の不確実性は、独裁的統治による強制された予測可能性への逆行の理由にはなりえない。前にある道のりには困難もあろう。しかし別の道を歩むことは、弾圧のまん延する恐ろしい未来に国家全体を委ねることを意味する。」

ヒューマン・ライツ・ウォッチ代表 ケネス・ロス(アラブの春の際の発言)
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・自由をめぐる究極のせめぎ合い

「非常事態」という言葉は本来の意味では「問答無用で私権を制限しなければならない状況」のことをいう。だからアメリカやヨーロッパでは早急に国境を封鎖し外国人の入国を禁止し、自国民の国内移動を制限することができた。その意味では、日本は実は非常事態宣言はしていないと見ることができる。

日本のニュースを見ていたら、自粛要請に応じないパチンコ店の名前が公表されるようだと報道された。法的拘束力を持たないただの「お願いレベル」で自粛を強要する行為が、憲法で保障された基本的人権を侵害しているのは明らかだ。また、店舗の営業者に対して自粛を要請する行為は私権の制限となり、財産権を侵害することになる。

日本国憲法第3章 国民の権利及び義務
第29条 【財産権】

第1項 財産権は、これを侵してはならない。

双方の言い分はこうだ。

パチンコ店の言い分: 「営業を自粛してしまうと、本来営業して得られるはずの利益が機会損失になる。これは営業の自由であり、私権の制限(ここでは財産権)は憲法によって認められていない。したがって営業は続ける。営業自粛を強要するなら不利益を保障してくれ。」

パチンコ嫌いの言い分: 「今は社会全体の利益を優先し、人の移動は制限するべきだ。人が密集し、閉ざされた空間の中で集団感染したらどうするんだ?営業を自粛しない店舗(不届き者)は晒して見せしめにすべきだ

休業要請に応じないパチンコ店の言い分は、国による保障は十分かどうかを考慮した結果、営業を続けたほうが経済合理的という判断だ。したがって、パチンコ店は営業を続けた。損得勘定でいえば、自粛に協力してわずかなお金をもらうよりも営業を続けたほうが経済合理的であり、感染対策は自分で取っているから問題ないのだという。たしかに「三密でない限りにおいては」と行政ははっきりと言っているので、ルールを守っている以上営業自体を禁止することはできない。

一方、行政側も市民の声がエスカレートしているので放っておくわけにはいかず、店名公表という晒し刑を執行した。その結果、店名公表ゆえに開店情報を無料で宣伝する結果となり、他県からも越境してパチンコ好きが訪れ、さらに来店者が増えることになったという。これでは何だか本末転倒ではないか?

その後、自粛要請に応じない店舗は自粛警察によって、脅迫電話や張り紙が増えたのだという...。

この理屈を当てはめて考えると、通勤電車やバスなどの交通インフラも人が密集する空間になるため、自粛せざるを得ない状況になる。つまりこれをやってしまうと、電力や水道などのインフラ、スーパーの店員さん、インターネットなどの通信インフラを担うサーバー管理者、経済の血液をコントロールする金融機関のスタッフなど、社会インフラを担う人たちの移動が大幅に制限されてしまい、インフラという最も重要な社会基盤を失うことになるからだ(*今、多くの人たちがテレワークでZOOMなどを使って遠隔業務をしているが、そこにはITインフラを担う人たちがいて始めて成立することを忘れてはならない。ヒトの移動をせずに社会を回すことは不可能で、必ず物理的に移動しなければならない人たちも一定数いるのだ。だから、外出する人々を無差別に攻撃する行為は慎んだほうがいい)。

さすがに政府も交通インフラを止めるわけにはいかず、交通インフラを止めずにパチンコ店の営業自粛を強制してしまうと、今度は民主主義の基本的理念である平等性が損なわれることになる。

なお、交通インフラを止めるわけにいかないということは、そこには一定数の不要不急の移動者も紛れ込むことになる。どんな社会でも逸脱する人は一定数必ず存在する。今回の件でいえば、旅行者やゴルフに行く人たち、河原でバーベキューをする人たちが該当することになるだろうか。

この私権の制限は非常にナイーブで難しい問題だ、ここに民主主義の限界と苦悩が見て取れる。なお、パチンコについてはうるさいという理由で私は感情的に好きではないが、自粛の強要はさすがにやりすぎだと思う。物事は常に相対的であり、絶対の正義は存在しない。物事は感情論ではなく、常に冷静に論理的かつ客観的な視野から俯瞰的に本質を考える必要がある。

では平行線をたどる両者を調和させることは可能なのだろうか?

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・ハームリダクション戦略で半自粛(能動的自粛)が最も現実的ではないか

世の中は理想主義に溢れている。「この黄色い財布を買えばあなたはお金持ちになれますよ~」、「この投資ソフトを使ったらあっという間に億万長者になれますよ~」、「このサプリメントを飲めば運動しなくてもダイエットができますよ~」、「この教材を買えば聞き流すだけで簡単に英語が話せるようになりますよ~」、こういう類の話はネット広告でもよく目にする。

人間は本能的に理想主義者だ。

なんとな~く効果がありそうだけど、それを試して効果が出た人は果たしてどのくらいいるのだろうか?何だかよくわからないものに手を出すよりも、私たちは今、冷静になって柔軟に考え、社会全体の妥協点を探っていく方がより現実的であるように思う。

上記のツイートにあるとおり、京都大学の藤井教授がツイートしたコロナ感染のヒストグラムは、オーバーシュートした自粛要請に疑問を投げかけたものだろう。

この図から読み取れる客観的事実は以下のとおりだ。

死亡者数: 60代~80代に多く、50代以下はほとんどいない
重傷者数: 60代~70代に多く、50代以下はほとんどいない、30代以下はほぼいない
軽症者数: 20代~50代に多く、10代以下はほとんどいない、60代~80代は20代~50代の半分程度

藤井先生は自身の見解を述べていないが、「50代以下はほとんど影響がないので、外出して経済を回し、60代以上は極力外出を控えていれば、実はコロナウィルスは言うほど怖くないんじゃないのか?」ということだろう。もちろん、ウィルスを正しく恐れることは大事だ。

ただ、、、1人の感染者も出ないように自粛するのは理想的だが現実的ではないだろう。こんな事をマジで続けていたら、コロナウィルスで死ぬ前に、多くの失業者が街にあふれて経済的に死んでしまう人の数のほうが増えてしまう。

今後予想される第二波、第三波が来るたびに自粛を断続的に行うことは現実的ではないだろう。

上記の藤井先生の「半自粛」の内容を詳しく読んだわけではないが、おそらくハームリダクションの考え方をベースにしていると考えられる。

ハームリダクション(Harm Reduction)とは有害なもの(Harm)を軽減する(Reduction)という意味の言葉で、主に薬物療法に使われる言葉だ。この考え方の基盤となる思想は「有害となる問題を完全に解決させることを最初から期待するよりも、その行為を止めることができないのであれば社会全体で毒性を弱めよう」というリベラルな考え方に基づく。

私は10代の一時期をヨーロッパで過ごしたが、それはそれは想像を絶するような文化に放り込まれたことを覚えている。私はスイス、フランス、オランダに滞在したが、ここで大きなカルチャーショックを覚えた。

例えば、フランスの学校では授業が終われば先生は必要に応じて生徒たちにコンドームを配布する。思春期の子どもたちにセックスをするなと言っても、どうせ行為自体を止めることはできないからだ。それならば、個人の自由意思を尊重し、せめて望まれない妊娠を予防したり、性病が社会全体に蔓延しないように教育したほうが現実的だという考え方に基づく。なお、路上売春者に国がコンドームを配布して「適切な」予防策を採用している国もある。以外と思うかもしれないがアジアではシンガポールが国家規模で管理売春をして性病の感染防止に努めている。

また、オランダの学校では授業が終われば先生は必要に応じて生徒たちに注射針を配布する。ドラッグが好きな子どもたちに薬物をやるなと言っても、どうせ行為自体を止めることはできないからだ。それならば、個人の自由意思を尊重し、体育館の裏でまわし打ちをしてHIVが社会全体に蔓延しないように教育したほうが現実的だという考え方に基づく。なお、隣国スイスではヘロインさえも合法化されており、現在は街を歩いても麻薬中毒者を見かけることはなくなった。薬物医療センターにいけば、保険が適用され、「適切な」用法容量を調整してもらいながら心置きなくキメられるのだから。

私が日本で「普通の」学生生活に戻った時、今度は逆カルチャーショックに悩まされた。大人たちは言う、「未成年で責任を取れない年齢なのにセックスをしてはいけない」「ドラッグは人間をダメにするし、法律で禁止されているから手を出してはいけない」と。私が感じた大人たちに対する違和感の正体とは「それらを子どもの本能をコントロールさせるための十分な理由にはなっていなかった」ということだった。ようはリスクは自己責任でコントロールするものではなく、リスク自体を全否定して禁止するのが日本人らしい。不届き者を受け入れて共存するという意識はなく、問答無用で制裁されてしまうのだ。

この経験で私が学んだことは、「日本人というのは問答無用でリスクに対して過剰に反応する強迫性障害の資質を兼ね備えた人々」であるということだ。

そりゃそうだよね、だって大人たちは子どもの頃、ナガナワトビヲヤッテソダッタンダカラ。

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上記は多くの人にとっては非常に過激に感じる実例かもしれないが、こういうケースは私たちの身の周りにもたくさんある。

例えば、私たちは車を運転するときには保険に入るし、運転席にはエアバッグを取りつける。自動車保険に入るのは事故に遭った際や誰かを巻き込んでしまった時のリスクを最小化するための手段、運転席にエアバッグをつけてシートベルトを締めるのは、万が一事故に遭ってしまった時に死亡リスクを最小化するための手段だ(※もっとも、保険に入ったから事故を起こすことを正当化してよいことにはならないし、薬物が合法化されているから依存症そのものが肯定されるわけではない)。事故に遭うのが怖いからといって車を運転するのをやめることはできない、それならばリスクを最小限にとどめながら運転しようという考え方のほうが現実的だ。

まさか皆さんは、飛行機が落ちてくるのが怖いから、外に出ないでシェルターに籠って暮らそうということにはならないだろうと思う。だけど、なぜかコロナ問題についてはゼロリスク症候群がオーバーシュートして(過剰に行き過ぎて)しまい、自粛警察を生み出す源泉になってしまったことは言うまでもない。

少し落ち着いて考えてみてはどうだろう?マスクをつけない人を不届き者と定義するならば、マスクをつけない人に感染させないために私たちはマスクをつける。マスクをつけない人から感染しないために私たちはマスクをつける。どんな社会にも一定数ルールを逸脱する者はいる。だけど、それを無差別に攻撃するのではなく、不届き者を受け入れ、共存を目指せる豊かな社会であってほしいと願っている。

0か100、善か悪かを巡る二元論でこの問題の本質を解決しようとすることは、非常に危険だ。コロナ禍の外出制限は、自粛要請の圧力をかけると、それを破る人々がかえって地下に潜ってしまい、見えないところでより深刻な二次被害、三次被害を拡散させてしまいかねないからだ。

民主主義とは本来私たちを豊かにするためのイデオロギー(政治理念)であるはずだ。それは賛成派と反対派、多数派と少数派に常に意見が分かれ、絶対の正解が存在しない世界でもある。これが民主主義の最大のコストであり、自由をめぐるせめぎ合いは今日も続く。

おそらくコロナ禍がひと段落したずっと後に、私たちは社会全体でこの問題について議論する必要があると思う。

ただ、これを読んでいるあなたが自粛警察ならば、やみくもに歪んだ正義を振りかざす行為は控えてほしい。災いは巡ってやがて自分に跳ね返ってくる。

(ツギニナガナワニヒッカカッテシマウフトドキモノハアナタカモシレナイ)

井戸に唾を吐く者は、いつかその水を飲まなければならないのだから。