火を使わずに、素材本来の良さを引き出す。
味付けは必要最低限の薄味で十分。
海の幸、山の幸、私たちは季節ごとの旬な食べ物に舌鼓を打つ。
そして熱燗をクイっと呑んでオアイソ済ましてさっと帰る。
ワハハ。
この繊細さこそ、まさに和食の醍醐味ともいえるだろう。
私が同年代よりもオジサンたちと相性がいいのはジジくさい20代だからだろうか...
一方、中華料理は、火を通した料理が多い。
中華鍋に素材を入れてとにかく煮る、炒める。
味付けは濃く、とにかく煮る、炒める。
大皿に盛ってみんなで分け合って賑やかに食べる。
自分の分を取ったら、ターンテーブルで次の人へまわす。
紹興酒がグルグル廻ってきて朝まで飲んで、そのまま酔っ払って床に寝る。
ガハハ。
この豪快さこそ、まさに中華料理の醍醐味ともいえるだろう。
うっかり油断すると、ターンテーブルに乗った伝票が私の前で止まるのは気のせいだろうか...
このように食べ方ひとつ比較しても、「食文化」というのは、お国柄を反映させていることがよくわかる。
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日本を出て海外にしばらくいると、これは!と思える日本食にめぐり合える機会が非常に少ない。
おそらく、「職人さんの腕」もさることながら、肝心の「新鮮な食材」が入手困難なことが最大の原因だと思う。
果たして、海外の日本料理屋に入ると値段は割高で、期待値は低くなる。
マズい(大幅にマイナス)、マズい(大幅にマイナス)、マズい(大幅にマイナス)、そしてまぁまぁウマい店がたまにある(小幅にプラス)。
とにかく偏差(バラツキ)が大きく、合成期待値はマイナスになる。
一方、中華料理は、あまねく世界中どこに行っても楽しめる。
おそらく、食材はともかく火を通して濃い目に味をつけてしまうので、どこで食べてもあまり味は変わらないのだろう。
果たして、海外の中華料理屋に入ると値段はお手ごろで、期待値は若干高くなる。
まぁまぁ(プラスマイナス0)、まぁまぁ(プラスマイナス0)、まぁまぁ(プラスマイナス0)、そしてたまにウマい店がある(大幅にプラス)。
わりと偏差(バラツキ)が小さく、合成期待値はプラスになる。
個人的には、あまりマズい中華料理は食べた経験がない。
マズい中華料理屋を知っていたらぜひ教えてほしい、絶対に行かないけど(笑)
こうして味のバラツキを考えてみると、
日本料理 → 個人商店
中華料理 → チェーン店
のようなイメージだろうか。
そうそう、忘れちゃあいけない!
日本料理、特にお米は水との相性も大事だ。
ヨーロッパなどでは、水が硬水なので日本の米との相性がとにかく悪い。
やはり米は軟水でふっくらと炊くのがいいと思う。
炊きたてのご飯を20分くらい蒸して、ツヤツヤのご飯をパクッと食べる。
「いただきます!」
くはー、たまらん。至福の時間だ。
私は個人的に、タイ米のような水を吸わないパサパサしたお米は完全に興ざめだ。
朝起きて、勢いよく勃つものも勃たなくなるではないか...
やはり適度に水を吸ってふっくらした米を食べないと何事にも身が入らないのだ。
米、米、米。
果たして、私は米に異常なまでに固執する変態野郎だろうか?
私は決してグルメな人間ではないけれども、3日以上おいしいお米を食べないと禁断症状が出て発狂しそうになる。
航空技術が発達し、半日もあれば地球の裏側まで移動できる。
インターネットが発達し、世界中のどこへでも瞬時にアクセスできる。
本当に便利な時代が来たものだ。
世界はひと昔に比べて随分近くなったといわれて久しいが、生き馬の目を見抜くといわれるニューヨークの街角でさえ、おいしい米は食べられないままだ。
文化の違いも含め、グローバル社会のルールに合わせたり我慢することはできるようになって来たけれども、おいしい米を食べられないのだけはどうしてもダメだ。
出国前に米を別便で送り、滞在先のホテル周辺で米を炊いてくれるお店を探すのが一苦労でもあり、また楽しみのひとつでもある。
海外に出ると、自分自身のアイデンティティーと向き合う時間が多くなる。
そりゃそうだ、日本国内にいて自分を「日本人」と意識する瞬間は、せいぜいワールドカップやオリンピック、あるいは国境問題のニュースを見たときくらいだろう。
おそらく「日本人」というのは絶対的な概念ではなくて、他の国と比較したときにはじめて「日本人」という相対概念が生まれるのだろう。
すなわち比較対象があってはじめて、私たちは「日本人」になるのだ。
他の国の文化を尊重しつつも、自分たちの国の文化も大切にしなくてはいけないね。
食文化だって、アイデンティティーを形成する上で重要な役割を担っているのだから。
あーあ。
世界中どこでも、おいしい日本食が食べられるようにならないかなー。
何かいい方法はないだろうか?