柱の裏の落書き

ひまつぶしにぶつぶつ書いてみる

グローバル社会

成熟した国家


過去の栄光にしがみつく。

プライドが高い人間に多い気がする。


言うなれば、

人生の最盛期を過ぎたことは自分では薄々感づいているものの、その事実を受け入れられずに、「どうやって心理的不満を解消してよいかわからない」というジレンマを持っている人間は、過ぎ去った日々を回想し、現在の自分の立ち位置を確保しようと必死になり、過去の自らの姿に、現在の自分を投影しようと試みる。


自尊心を満たすために...


祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。

猛き者も遂には滅びぬ、
偏に風の前の塵に同じ。


『平家物語』冒頭より



先に述べた人間とは、実は日本人のことを指している。


かつて、


" JAPAN as No. 1 "


と称賛され、
世界経済を牽引してきた日本経済も、かつての勢いは衰え、成熟したお年寄り国家になってしまった。


それにもかかわらず、
アジア諸国を歩いていると、虚栄心を捨てきれず、偉そうに立ち振る舞う自称グローバリストの日本人をよく目にする。


私は、そんな光景を見るたびに、
1人の日本人として本当に情けない気持ちになる。

残念ながら、今の日本はアジア全体から見れば、
最東端に位置するひとつの国家に過ぎない存在になってしまった。

多くの外資系企業は、
香港・シンガポールにアジアの重要拠点を移し、日本は営業部だけを残して撤退していく企業が増えたように思う。


日本人は「プライドが高い」と言われる。

だが、ここで言う「プライド」はたぶん本来の意味を履き違えている。

プライドとは「誇り」という意味だ。


多くの人間が定義するプライドは「誇り」などではなく、

自らの心の脆さを映し出した「虚栄心」ではないだろうか?


自称グローバリストたちよ!

日本人は、日本人というだけで、そんなに偉いのだろうか? 



小学校
3年生のとき、はじめて東京タワーに登った。

1991年のことだ。

360°見渡した大都会・東京の街並みは、建設中の建物ばかりで、赤いクレーンがたくさん見えたように記憶している。


先日、あの頃を思い出しながら、クレーンを探してみた。

近くに見えたのは、
建設中の虎の門ヒルズくらいだったように思う。

057


今は、東京タワーよりも高いビルが立ち並び、
すっかり景色が変わってしまっていた。

あれから
22年。

この街も成熟してしまったのだなぁと、感慨深い。


当時
9歳だった私も、31歳になった。

あれから22年か...


時間は確実に流れている。

時代は少しずつ変わって行く。 


唯一変わっていなかったのは、
私の精神年齢くらいだろうか(笑)



これから、この国はどう変わって行くのかな。

この国のために私たちができることは何だろうか?


※追記

066
東京タワーを

065
撮ってる人を撮ってみた


078
ラッフルズプレイスから見たマリーナベイサンズ

094
横から見ると、また違って見える


物事は違う角度から見るとおもしろい。

常識の違い


日本の常識は世界の非常識。

村社会の常識は都会の非常識。

郷に入っては、郷に従え。

昔の人はよく言ったもんだ。


グローバル社会では、日本の常識は通用しない。

頭では「わかって」はいたが、とうとう実体験として「理解できる」貴重な機会に恵まれてしまった。

これから世界はどんどんグローバル化していくだろうし、そこでは突然のルール変更にも柔軟に対応できる
能力が求められるだろう。

あまりにも初歩的なミスを披露するのはお恥ずかしいかぎりだが、
次に必要としてくれる誰かの参考になればと思い、投稿することにした。


*****
 

【債務不履行】


まず、結論先行でいえば「約束を守っても、相手にとってメリットがない契約は絶対にしてはならない」ということだ。

簡単に説明すると、経緯は以下のとおり。
 

**************************************************

シンガポールで金融プログラムの開発をしていて、自分で仕様書を書いていたものの、自社のエンジニアが通常業務で手一杯のため、オフショア開発として、近隣諸国へアウトソーシング(外部委託)をかけることにした。私が多忙で頭が回らなかったせいもあるが、金額も小額だったため、一括で支払いを済ませた。



日本人エンジニアと仕事をすると、
ミーティング前に先回りして細かい行間まで読んでくれるため、多少曖昧な表現であっても問題点を把握し、軌道修正してくれる。また、アフターフォローもしっかりしているし、多少の修正があっても対応してもらえることが多い。



ところが、―私の語学力のなさもあるかもしれないが―、オフショア地域のエンジニアには仕様書の意図がうまく伝わらず、想定していたものとは違うソフトウェアが納品された(すなわち、わけの分からない計算結果が出力されてしまった
...)。



彼らに連絡をとったところ、「聞いてませーん」と返信があり、追加料金を支払ってでも修正してもらおうと再度連絡をとったところ、今度は音信不通になった。


結局、自分で作った。

うぇーん
 。・゚・(ノД`)・゚・。 
今ここらへん

**************************************************

契約には、おそらく
3種類あると思う。

1.
 お互いが同じタイミングでメリットを得る契約
2. 自分だけが先にメリットを得て、相手が後にメリットを得る契約
3. 相手だけが先にメリットを得て、自分が後にメリットを得る契約


1.2.はともかくとして、問題は3.の場合だ。

通常の契約では、前金
50%を支払い、納入後に残金50%を支払う「痛み分け」がビジネスの世界の常識だ。

ところが、今回は相手の属性をよく確認せずに、うっかり全額を振り込んでしまった。

完全に私の注意不足、軽率な行動だった。


なんというか、
恋人がかまってくれないのでナンパした女性とセックスをしたら、性病を移されて高くついてしまった感じだ...


はじめから自分の手でやっとけばよかったのかな...

*****


【常識の違い】


日本というのは、村社会であって、流動性の少ない安定した社会だ。同じ村の中で、同じ人たちと長い間付き合うのが習慣となっている。

この習慣は現代社会にも受け継がれており、ビジネスでもプライベートでも「村社会」が存在している。このような安定した社会では信用が何よりも大事にされる。

これは終身雇用制のように、定年まで同じ企業に勤める仕組みを考えればわかりやすいだろう。

また、視野を少し広げてマクロの視点から業界という村社会全体を眺めてみても、社外の人たちとの横のつながりを大事にする風習がある。一度でも信用に傷がつくと、その業界では村八分にされてしまい、生き残っていけないからだ。

経済的合理性、すなわち損得勘定で考えても、「目先の利益」にはこだわらず、約束を確実に守り、「信用を勝ち取る」ほうが長い目で見れば得をする。「損して得とれ」とはまさに村社会的な発想だ。

だから村社会の人たちは約束を守る。

これは、株式投資でいえば、ゆっくりと時間をかけてプレミアムを稼ぐ「長期投資」のイメージに近い。

また、男女関係でいえば、共通の知人・友人がいる同じコミュニティ内では、急いで性的関係を求めるよりも、長い時間をかけて信頼関係を築いていく「結婚」のようなイメージに近い。

さらに、日本人は世界的に見ても極めて特殊で、子どもの頃から性善説の道徳教育を受けるため、みんな基本的には親切だ。

財布を落としても拾った人が交番に届けてくれるし、お金も手つかずで戻ってくることが多い(らしい)。

田舎の道端には無人販売機があって―誰も見ていないにも関わらず―、箱の中に律儀にお金を入れて、好きな野菜を選んで持ち帰っていく。

日本人は宗教的な人は少ないけれども、信仰心のある人は多い。

お天道様が見てるからね、と多くの人たちは悪巧みをしない。

これは世界に誇れる素晴らしい民度だと思う。

こういった性善説の文化的背景を見ても、約束は律儀に守るように教育を受けている。



一方、


グローバル社会というのは、人間関係が次から次へと流動化する、不安定な社会だ。

明日のことなど誰にもわからないし、安定などどこにも存在しない。今がすべての社会だ。

ビジネスでもプライベートでも「村社会」などといった安定した場所は存在しない。

これは外資系の金融機関のように、転勤する感覚で違う会社に転職するような感覚に似ている(若干大げさな表現だが)。

明日の隣のデスクには今日とは違う人間が座っているかもしれないし、出社したら自分のデスクはないかもしれない。


このような不安定な社会では「信用を勝ち取る」よりも「目先の利益」が何よりも大事にされる。

長期安定志向で物事を進めていくと、回収不能リスクが高すぎるため、「自分にデメリットになるような約束は守らない」というのが、グローバル社会の常識なのだ。

株式投資でいえば、長い目でみても明日のことは誰にもわからないから、目先の取れる利益だけを奪い取ってさっさと手仕舞いする「短期投資」のイメージに近い。

また、男女関係でいえば、今がすべて、
共通の知人・友人もいないし、次は会える保証などないのだから、急いで性的関係に持ち込む「一夜限りの関係」のイメージに近い。

以前、アラブ系の女性が面白いことを言っていた。

灼熱の砂漠を横断するとき、彼女たちは金のアクセサリーを身にまとっているのだそうだ。

一見するとアバヤ(
真っ黒い民族衣装)で身を隠しているので地味に見える彼女たちではあるが、あの衣装の中はゴールドを潜ませているという。

その理由は、砂漠で水が必要になったとき、ラクダに乗ったキャラバン隊は紙幣を(アメリカドルでさえ)受け取ってくれず、多くの人が普遍の価値を認める「ゴールド」でなければ水と交換してくれないらしい。

仮に、キャラバン隊から水を受け取れたとしても、今度は彼らが水が必要になったとき、
紙幣と水を交換できないリスクがあるためだ。だからキャラバン隊が紙幣を受け取るメリットはない。せいぜいラクダのケツの穴をきれいに掃除して終わりだ。

日本人の感覚では、蛇口をひねれば当然のように水が出てくるので希少価値はあまり感じないが、砂漠の民にとっては、水は命と同じくらいの価値を持っているようだ。

上記は一例だが、単一民族国家に比べて価値観のバラツキが大きな多民族国家、厳しい環境のもとで生活する人たちにとっては、性悪説で物事を考えるのが常識となっている。

彼女は私に言った、「ゴールドと水を交換するタイミング?同時に決まってるじゃない、私は走ってもラクダに追いつけないわ!」。


もっとも、社会の常識に従うという意味では、村社会もグローバル社会も一緒だ。

唯一違うのは、「
常識の中身」が違うだけのこと。

こうして考えてみれば、私が「契約を反故にされた」と怒るのは、ある意味で筋違いだ。

私が単にゲームのルールを間違えただけの話なのだから。

すべては自己責任、実に厳しい世界だ。



*****


【信用創造】


大学受験の熟語集だったと思うのだが、"make believe"の日本語訳が「~と見せかける」「~の振りをする」と書かれていたように記憶している。

私は
英語の発想力に「あー、なるほどなー!」と納得したのを覚えている。

つまり、信用を創造するという行為は、
シェイクスピアが言う「この世は舞台、人はみな役者にすぎない」と同様の原理であって、われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「本来の自分」とは別に「演じる役割」を明確に区別せよということだ(参考:「本音と建前」)。

ゆえに、信頼を構築するためには、本心とは別の振る舞いを律儀に続けていくことによって、相手に心を開いてもらうよう努めなければならないのだ。

それにしても得るまでにはあまりにも時間がかかり、崩壊するのは本当に一瞬なんだよね、これが
...


信用創造――。

まだ銀行に勤めていた頃、何度となく聞かされた言葉だ。

金融機関のような仲介ビジネスは性善説で成り立っているから、絶対に顧客の信頼を裏切ることがあってはならないというもの。

考えてみれば、金融機関というのは不思議な存在だ。口座を開設して、多くの人たちが大事なお金を預けるにもかかわらず、誰ひとりとして組織的な持ち逃げを懸念している人を見かけたことがない。

銀行は、預金者から安い金利でお金を借りて、企業に
高い金利で貸し出し、その差額で儲ける巨大なサヤ取り業者だ。だから、右から左にお金を流して手数料で儲けているだけの楽な商売だと批判される風潮がある。

特に日本では、伝統的な価値観を持った人たちからすれば、モノづくりこそが実業であり、金融業は虚業であると信じている人たちは未だに多い。

これはある意味で否定できない事実ではあるが、銀行には別の信用創造の側面もある。

たとえば、貿易の決済を考えてみればわかりやすい。貿易の決済には通常、信用状(
L/C)が発行される。

輸出者と輸入者はお互い遠い国に存在することが多く、輸出者は初めての取引相手である輸入者に対して信用不安が生じる。

そりゃそうだ。荷物を送ったはいいが入金がされないリスクがあるのだから、解決策としてはどこかで待ち合わせをして、荷物と現金を同じタイミングで交換する必要がある。これでは、まるで映画に出てくるマフィアの麻薬取引と同じで経済効率が非常に悪い。

そこで、当事者間に輸入国の銀行と輸出国の銀行が入って、支払いを確約する制度をとっている。

そのため、 
輸入者が倒産などによって支払いが不能になった場合でも、信用状を発行した輸入国の銀行が為替手形の引受け/支払いを確約しているので、輸出代金の支払いは確実となり、輸出者は安心して荷物を出荷できる。

これが信用の創造を生み、効率的な経済効果を生み出す。めでたしめでたし、と。

ゆえに、銀行はモノづくり産業の縁の下の力持ちとして実体経済を担っているのだ。


*****


【失敗から学んだこと】


エラそうに信用創造について書いたが、私も何となく「わかった」つもりになっていたものの、自分が当事者になってみてやっと「理解」できた。

自己顕示欲旺盛な成功談はともかく、失敗談は恥ずかしがらずにどんどん晒したほうがいいと思う。

初めてフグを食べた人は毒によって死んでしまったが、多くの犠牲になった人たちがいたからこそ、毒のある部位を特定でき、それを取り除くことによって、私たちは安心してフグを食べられるようになった。

「わかる」ことと「理解する」ことは別ものだ。
書籍やマニュアルをたくさん読んだところで、結局は「わかった」つもりで終わってしまう。二次元(紙の上)と三次元(実体験)の決定的な違いだ。

エロビデオを見ながらオナニーばかりしていても、セックスが上手くならないのと一緒。

投資のマニュアル本見ながら理論ばかり勉強していても、実践で全く役立たないのと一緒。

自己啓発の書籍を片っ端から読んで満足しても、給料が上がらないのと一緒。

ぜ~~~んぶ本質は同じこと。

標本データが少ない状態、つまり何事も経験値が少ないといつまで経っても上達しない
誰もが傷つきながら大人になっていくように、経験を積んで交わし方を学びながら、みんな一人前になっていくのだろう。

私自身、実務に関してはだいぶ場数も踏んだし、それなりに上達したと思うけれど、グローバル社会のビジネスマンとしてはまだまだ初心者、極東の島国出身の田舎者だ(昨年から独立しました)。


約束を守っても、相手にとってメリットがない契約は絶対にしてはならない

1. お互いが同じタイミングでメリットを得る契約
2. 自分だけが先にメリットを得て、相手が後にメリットを得る契約
3. 相手だけが先にメリットを得て、自分が後にメリットを得る契約


最も理想的な1.実現させるためには、当事者間に信頼できる第三者を入れて、貿易決済と同様、信用状(L/C)発行のような仕組みを提供する仲介機関が必要だ。

これからの時代、クラウドソーシングといって世界中の事業者とエンジニアを金融機関のように
仲介するサービスが認知されてくるだろう。

ある人は言うかもしれない、「
仲介機関は、手数料稼ぎの虚業にすぎない」、と。

ただ、そこには性善説による「信用創造」があることを忘れるべきではないし、リスクヘッジの保険料と考えれば、
手数料を支払うだけの価値があると思う(もっとも仲介機関そのものと業務を委託する相手のリスクはあるが)。

知らない相手同士を、信用の創造によって結び、効率的な経済効果を生み出すサービスが盛んになってほしいものだ。

どんなビジネスであれ、業界やサービス内容は違っても、その基本は「人と人との信頼関係」によって成り立っている。

私はこんな基本中の基本をおろそかにしてしまい、結果として痛い目に遭ってしまった。

この記事を読んでくれたみなさん、私と同じ目に遭わないように!



グローバル社会は「やり逃げ社会」だぞ!


集中と分散

19987月、スイス・ジュネーブ。国境を超えた隣国のフランスではサッカーのワールドカップが開催され、大変な盛り上がりを見せていた。

時代背景を説明すると、翌99年の欧州統合通貨(ユーロ)の発足に向けてヨーロッパ諸国が足並みを揃えていた頃の話だ。

ジュネーブには、いわゆるプライベートバンクと呼ばれる富裕層専門の銀行が立ち並ぶ金融街がある。私は、銀行の扉の向こう側に1度だけ足を踏み入れる機会があった(友人の祖父に連れて行ってもらっただけだが)。

銀行の中はカウンターが完全個室になっていて、そこでバンカーとのやり取りが行われていた。

「キャッシュ比率はこのくらいで、クーポン債がこういう比率で5年後にこれとこれが償還になって、償還予定の金額がいくらくらいで、この償還予定金額を株式で運用して...

0のケタがあまりにも大きすぎて私には理解不能だったが、大人になってから、「仕組み債」の商品のようにポートフォリオを設計していたようだということがわかった。

私は非常に気になったので質問した、「何でわざわざこんな面倒くさいことしているんですか?」、と。

担当バンカーの方と友人の祖父から全く同じ答えが返ってきた、

「世界中、いつ、どこで戦争やテロ、災害などがあるかわからないから、いろいろな商品や地域に分散して資産を守っているんだよ。万が一、どれかの資産価値が0になっても、どれかが生き延びれば全部の資産は失われずに済むからね。これはリスクヘッジと言う考え方なんだ。株式と債券、それぞれの地域の通貨も違う値動きをするから、うまくブレンドして組み合わせるとプロテクトが効くんだよ」。

さらに...

「そうそう、スイスが永世中立国でいられるのも同じようにプロテクト機能を効かせているからこそなんだ。この国にはボーディングスクールがたくさんあって、世界中から政治家や実業家など有力者の子どもたちを集めて教育をしているんだ。だから子どもたちを担保(人質)にすることで、この国にはどこの国も攻撃できない仕組みになっているんだよ。なかなかのリスクヘッジだろ?」。

何とも!

政治的な話はここではしない。

とりあえず当時16歳の私にわかったのは、「お金持ちは世界中のいろいろな商品に分散して投資を行っている」ということ、もう1 つは「目の前の老人を誘拐したら身代金がたくさん取れる」ということだった(笑)
 

それから約5年後。

学生投資家になった私は、異なる2つの考え方に出会った。

1つは、20039月(当時21歳の時)に訪れたアメリカ・ラスベガスでの出来事。

ホテルLUXORのカジノで同席したユダヤ系の個人投資家の方が、ルーレットの赤と黒のボードの上にせっせとチップを乗せている光景を見て、あの日の記憶が甦った(いわゆるアウトサイドベット)。まさかと思って理由を尋ねてみることにした。

彼は私にこう言った、
 

「長くゲームを続けるコツは分散することだよ」


ユダヤ系の特徴は、一か所に資産を留めておくよりも、できるだけ多くの国や地域、株式や債券など複数の金融商品に分散して投資する傾向がある。これは彼らの思想の原点である「タルムード」にも書かれている(「卵は一つのカゴに盛るな」という有名な格言はここから来ている)。

ユダヤ人の悲しい歴史を考えれば、バビロン捕囚以来、祖国を追放された彼らには、しぶとく生き延びるためのDNA が深く刻み込まれているようだ。

彼らは、子弟教育に関しても、一人はアメリカへ、一人はヨーロッパへ、もう一人はアジアへと、分散して子どもたちを留学させる傾向がある。

 「誰かが死んでも誰かが生き延びれば次の世代へとDNAを継承することができる」、何とも合理的な考え方だ。 

『お金持ちには「子ども」はいない、「相続人」がいるだけ』

タルムードの言葉だ。


もう
1つは、20047月(当時22 歳の時)に訪れた香港での出来事。東シナ海上空で発生した台風の乱気流の中を、天空の城ラピュタのパズー少年のごとく飛行機が突入して行った記憶がある。本当に死ぬかと思った。

幸運にも、香港を代表する個人投資家の方の誕生日会に出席させていただける機会があり、数日後、彼のディーリングルームに招待していただいた時の事。

私はそこで信じられない衝撃的な光景を見た。

おそらく私の生涯で忘れることはないだろう。

その御仁は、証券会社のOBをアナリストとして雇用し、たしか4050銘柄くらいの銘柄を絞りに絞って、わずか2銘柄に莫大な資金を集中投資していたのだ。

私は恐る恐る質問した、「この投資方法は個別株に2つしか分散していませんよね?これって予測がはずれたら莫大な損失になりますよね?この投資方法はハイリスクハイリターンではないんですか?大変失礼ですがポートフォリオってご存知ですか?」

ただちに反論が返ってきた。

「バカ者!分散して投資するのは、自分の選択した銘柄に自信を持っていないからだろ?そんな中途半端な意思決定では投資は絶対にうまく行くわけがない。こっちは経営者の素性から企業の主力商品、業績、市場の占有シェアに至るまで、収集できる情報は全部集めさせて徹底的に分析しているんだ、わかるか?やると決めた以上は徹底的にやるんだ、投資は遊びじゃないんだよ!」。

私は疑問に思って質問しただけなのに、なぜか延々と説教を喰らってしまった...

華僑系の特徴は、戦争で言えば人的資源・物的資源を1 箇所に集中する「局地戦」のように、大金を1箇所に集中して投資する傾向が強いように思う(ルーレットで言えばストレートアップベット、1つの数字に賭ける行為)。

これは投資にかぎらず商売にもその傾向が強いように思う。

商売で稼いだ利益は株式や不動産などの不労所得で増やし、不労所得だけで生活できる水準に達した後でも、彼らは自分が選んだ商売そのものに一切手抜きをしない。

なお、子弟教育だけは分散させているようだ。


言葉足らずなので誤解のないように書くが、「○○系がこういう考え方である」というステレオタイプ的な見方や偏見ではなくて、あれから約
10年が経ち、その後、私が実際にお会いした方々は、思い出せるかぎり上記のような考え方をする傾向が強かったように思う。

あくまでも私の実体験での話だが...

 「ユダヤ系」と「華僑系」、どちらも祖国を離れて異国で暮らすディアスポラ(離散の民)だが、考え方が真逆だったことが、当時の私にとっては非常に新鮮だった。

この両者は、書籍等には商売上手のイメージで描かれているが、少なくとも私の経験上、考え方については真逆の傾向がある。

なお、イスラエル出身のユダヤ人はお世辞にも商売上手とは思えない(笑)


投資を始めた頃に出会った
2つの異なる考え方。

どちらも一理あって正しい考え方だと思う。

ただし教科書的に言えば、

ユダヤ系の個人投資家の方の考え方は、「期待収益率」の観点からすれば間違った考え方であり、

華僑系の個人投資家の方の考え方は、「リスク分散」の観点からすれば間違った考え方ということになる。

私は、

世の中には絶対の正解は存在しない

どんな考え方にも長所と短所が存在する

ということを、身を以て体験させていただいた。

さらには、十分に分散する資金があるお金持ちであっても、必ずしも全員が分散投資をしているわけではないという事実があることがわかった。

私は、ジュネーブでの経験から、「お金持ち=分散投資をしてリスクヘッジをする」ものだとばかり思っていたので、香港での出来事は衝撃的だった。

一方はギャンブル、もう一方は金融取引。

ラスベガスと香港の話は、同じ土俵で比べていないので相対比較ができるものではないのだが、投資を始めた頃、2つの場所で「全く異なる考え方」に出会った。


私はいろいろ考えた結果、「ゲームを長く続ける」というユダヤ系の個人投資家の方のベット(賭け)の仕方を参考にすることにした。

こちらの考え方を選んだ最大の理由は、単に私の価値観の問題だ。

おそらく私の価値観は16歳の時の経験が強烈に脳に刷り込まれてしまっていたのだと思う。

「増やす」よりも「減らさないように」投資するという考え方そのもの』が、結局のところ、ゲームを長く続けるコツだと思っている。

時々、ふとあの頃を思い出していろいろ考えるのだが、職業として金融取引をするようになった今でも、どちらに優位性があるのかは正直言って未だにわからない。

「集中」と「分散」、どちらも一理あると思う。
 

世の中には絶対の正解はない。

本音と建前


「日本って、本音と建て前の二重社会だから疲れるよ
...

外国人の友人たちからよく聞く言葉だ。

日本語を流暢に話せる彼ら/彼女らでさえ、この文化を理解するのにひと苦労しているようだ。

本音と建前、この概念は日本人の文化的特徴を説明するときによく用いられる。


ただ、考えてみてほしい。


人間は誰しも少なからず裏と表を持った、二面性のあるいやらしい生き物ではないか。

明るい太陽の下では一見すると品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

そうだとすると、人間の集合体である社会や国家もまた、言いまわしは違えども、「本音と建前」のような概念は存在しているのではないだろうか?

多くの人々と交流し、生活を営んでいく社会という公共空間において、世界中の全ての人たちが本音を使ってしまったら、人間関係は殺伐としてしまうだろう。

小学生の頃、朝の会に知らない先生が入って来て「担任の○○先生は都合によりお休みします」と言われた。私は「何だ有給休暇かよー、大人はいいよな」と本音を言ったら「子どもがその言葉使うな(笑)」と言われてしまった。その先生は私たちを子ども扱いし、大人の事情を隠した上で、「都合により」という当たり障りのない建前を使ってその場をきれいに収めようとしていた。

そば屋に出前を頼んだ。しばらく待ったがなかなか持って来ないので、「まだですか?」と電話をしたら「今出ました」と言われた。両親の表情がイライラしていたのを察知した私は、子どもながらに解決策を考えた。自転車に乗って本当かどうか真意を確かめるべく、急いでそば屋に向かった。厨房に突入したらまだ作っていなかった。私が「なんで嘘つくんですか?」と店主に尋ねたら、「忙しい時はこういう言い回しをすることになっているんだよ」と言われた。これは「嘘」ではなく、日本では「建前文化」として当然のように活用されている。

ある営業マンは
「本当は契約を取りたい」という本音を隠しながら「話だけでも聞いてください」という建前を使って顧客にアプローチをかける。顧客もまた、「話だけでも聞いてください」というのが建前だということを分かった上で、営業マンの「本当は契約を取りたい」という本音をわかっているため、話を聞きながら「今、間に合っているから結構です」と体のいい断り文句を入れる。そしてこの断り文句もまた建前である。さらに、この営業マンに悪い印象を持たれないように、「ウザいからとっとと帰れ!」とストレートに言わないのが礼儀だ。どこで悪評が広まるかわからないのだから。

ある男性は、失恋して情緒不安定な女性に対して
「スキがあれば一夜の情交を楽しみたい」という本音(下心)を隠しつつ、「慰めるふり」をしながら愚痴を聞き、お酒を飲み交わす。女性もまた、「男性の優しさがその場かぎりのものであること(建前)」をわかっていながらも、ひとときの安心を求めたいという甘えと同時に、軽い女と思われないような建前(言い訳)を考える必要に迫られる。そこで、男性は女性に対して「お酒を勧める」「あたかも終電に乗り遅れてしまい、外部要因により帰れなくなった」などの口実(建前)を提供し、女性に非難が集中することを事前に回避するような配慮が求められている。 



世界は舞台――。

古代ローマの時代からおなじみの決まり文句だ。

われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

なるほど、
人間社会の本質はポーカーゲームと一緒ではないか。


昔からモヤモヤしていた人間の二面性について、この機会に頭を整理してみようと思う。

*****


【集団主義と個人主義】


日本には、「本音と建前」という文化がある。いや、厳密に言えば「ある」というよりも「ありすぎる」という表現のほうが適切だろうか。

日本は、地形学的に見れば、東西南北を海に囲まれた島国であって、大きな「村社会」である。同じ村の中で、同じ人たちと長い間付き合うのが習慣となっているし、多民族国家に比べれば人々の価値観にもバラツキが少ない。このような社会では「集団主義」「利他主義」の考え方が重視される傾向にある。

ところが、明治維新後に鎖国主義から開国主義へとパラダイムシフト(政策転換)が起こったことにより、「個人主義」の思想が日本にも輸入されるようになった。特に戦後は民主主義の普及とともに「個人主義」「利己主義」といった思想が浸透していった。

このように、現在の日本は、本来の「集団主義」「利他主義」と輸入品の「個人主義」「利己主義」が共存し、交錯する二重構造の価値観を持った社会になっている。

一般に、「集団主義」「利他主義」の社会では価値観のバラツキ(偏差)が小さいのに対して、「個人主義」「利己主義」の社会ではバラツキが大きくなる傾向にある。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これは値引き交渉を見ているとよくわかるのだが、「売り手」は、「買い手」が相当幅の値下げを要求することを見越して値段を高めに設定している。一方、「買い手」は、「売り手」が吹っかけてくることを見越して相当幅の値下げを要求することになる。その後、少しずつ互いに歩み寄って合意に達する。

これに対して日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。もしくは、事前に「定価」という意味不明な社会通念上の基準に
すり合わせた状態で交渉が始められる(そもそも交渉になっていないが)。そのため、交渉の席で欧米と日本双方の様式が交錯すると、お互いに混乱が生じることになる。

日本人の金額設定では、「売り手」が、ある価格を提示した後に大幅な値下げをした場合、
買い手は「最初の価格はいったい何だったのだ!?」と、「売り手」の誠意を疑い、不信感を持ってしまうことになる。そこで「売り手」としては、はじめから「買い手」が納得してくれるであろうと思われる妥当な金額を提示し、さらには誠意を示した証拠として値引き額まで丁寧に書き足されている(ことが多い)。そのため、交渉の席では交渉らしい事が一切行われず、交渉の席は印鑑を押すだけの場所となる(ことが多い)。

上記のような傾向は私の経験上、名刺交換ひとつとっても顕著に見られる。日本人相手の交渉の席では、まずは名刺交換から始まり、相手の会社名や役職名を確認し、世間話から交渉を進める。これは「集団主義」の思想が潜在意識に根付いているため、相手の所属先を確認することで一種の信用の担保を確保しているのだろうと思う。

一方、外国人相手の交渉の席では所属している組織よりも、その人物がどんな人物であるか探りを入れながら距離感を縮めて交渉を進める(ことが多い)。これは文化や価値観が異なる多民族国家などでは個人のバラツキ(信用リスク)が大きいため、最終的には「組織」対「組織」よりも「個人」対「個人」の交渉が幅を利かせるからなのだろう。名刺交換は、帰り際にぽいっと投げつけられて終わることもあった(笑)。

日本が建前社会で面倒くさいと言われるのは、「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋が、外国人にとっては理解不能なレベルにまで到達しているからだろう、と個人的には思う。

もっとも、
「おもてなし精神」の根底には利他主義というお人良しな国民性が影響していると考えれば、なかなか理解してもらえない分、某国に模倣される可能性は低いわけだが(笑)


*****


【建前主義の根底にあるもの】


先に日本が「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」が交錯する二重構造の社会になっていると述べた。

これはこれで、ある意味では説得力があるかもしれないが、鎖国をする以前にも日本には建前文化が存在していたようだ。そうだとすれば、上記の説明だけでは説得力に欠ける。

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最もわかりやすい例が、平安時代から続く京文化だろう。京都出身の知人に聞いた話では、「お茶を出されたら最低限
3回は断りを入れ、それでも薦めてくるようであれば召し上がりなさい」、と子どもの頃に教わったという。

つまり、お茶を出すのは建前であって、本音は「そろそろ帰ってくださらない?」という裏の意味が潜んでいることになる(京都怖ぇぇ
)。郷に入っては郷に従え、ところ変われば処世術も変わるようだ(※追記「常識の違い」)。

※日本の「行間を読む」という文化は、京文化が発祥ではないかと思う。日本固有の「建前」文化は、「行間を読む」文化と切っても切り離せない関係であり、またそれらが相互作用により相乗効果を生み出し、独自文化としてガラパゴス化していったのではなかろうか

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私は日本が建前社会といわれる根底には、実は母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思っている。

つまり、
「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」、両者の思想の根底にあるものは言語そのものではないかということ。

ひとつは二人称の使い方について。

たとえば英語は「あなた」は全部
”You”だ。友人に対しても”You”、大統領に対しても”You”自分に銃口を向けてくる相手に対しても”You”。つまり英語は、どんな立場、どんな状況であれ、二人称が誰に対しても平等に統一された言語となっている(※私の知る限り、ドイツ語には親しい人間にのみ用いられる別の言い回しもある)。

一方で、日本語には「あなた」に対応する表現がたくさんある。「きみ」「御前」「貴殿」「貴公」「貴君」など、ざっと思いつくだけでもこれだけある(なお、日本人は相手を罵るときも
「貴様」と敬語を使うようだ)。つまり日本語は、自分よりも目上の人間か目下の人間かによって二人称を使い分ける言語となっている(※私の知る限り、中国語には敬称として別の言い回しもある)。

このように、日本語は立場や状況に応じて相手に対する二人称が変わるため、英語と比較して
リスクオフの傾向が強い言語だといえるだろう。ゆえに、世間体を気にする言語の資質が建前文化を生み出した――。

これは、完全に私の仮説。

もうひとつは文法体系そのものについて。

たとえば英語は文法の構造上、主語(
S)→述語(V)→目的語(O)→補語(O)の語順で話が進むため、主語の後は結論である述語が先に来て、目的語や補語は後ろに回される。

極論を言えば、重要な順番で並んでいるため、文の冒頭の「何が(主語)」「どうした(述語)」だけ理解できれば最低限の文章が完成するため言い手と聞き手の間で理解がブレることが少ない。

例: 
Your smile makes me happy.

ところが、日本語だと
文法の構造上、主語(S→補語(O→目的語(O→述語(Vの語順で話が進むため、主語の後は補語や目的語が来て、結論である述語は後ろに回される。つまり、最後まで話を聞かないと、文章として何を言っているか理解できなくなる。ゆえに、途中で理解不能になると、最後は言い手と聞き手の間に理解のブレが生じやすくなる(いわゆる認知不協和)。

例: きみの笑顔は 私を 幸せに する

先に述べた交渉の話を思い出してほしい。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これに対して、
日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。

両者の交渉の進め方を見ると、欧米社会の交渉の席ではいきなり結論から攻めているのに対して、日本人の交渉の席では過程を大事にして最後に結論を持ってきていることがわかるだろう。

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英語では主語の次にいきなり述語(結論)、その後に
補語や目的語(建前?)。

日本語では主語の次に補語や目的語(
建前)、最後に述語(結論)。

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こういった母国語の言語体系によって思考回路が異なるため、日本語は一見すると遠回りになるが、
建前というクッションを十分に敷いた上で、最後に言い出しづらい部分(つまり結論、交渉でいえば条件や金額)をやんわりと出す――。

これも、完全に私の仮説。

あくまでも私の今までの体験からそういった傾向があるだけの話なので、科学的な根拠はないのかもしれない。ただ、ひとつだけ言えることは、「言語と
文化は相互に影響し合っており、両者は決して切り離すことができないもの」であり、「日本人の思考回路は少なからず母国語である日本語の影響を受けているだろう」ということ。

だから、
英語が話せるだけの自称「国際人」や自称「グローバリスト」を目指しても意味がないし、―自分の祖国のことはもちろん―、相手の国の歴史や伝統もしっかり学ばないと笑われてしまう。

同様に私たちは、時として日本人でさえ混乱を招く
「本音と建前」というまわりくどい文化を、しっかりと外国人に理解してもらうよう努めなければならないだろう。

*****


【万国共通のポーカーゲーム】


日本には「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋があり、それが「おもてなし精神」を生み出した一方、「行間を読む」「本音と建前」というまわりくどい文化を生み出した。

そして、日本が建前社会といわれる根底には、じつは母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思う。

なぜならば、英語圏をはじめ世界に多く見られる、主語の後に述語が続く言語圏の人々が結論を重視するのに対して、主語の後に補語や目的語が続き、最後に述語を持ってくる日本語では、過程を重視しながら最後に結論を出す傾向があるからだ。

上記は、私自身の実体験やまわりの友人たちからの伝聞にすぎず、あくまでも仮説にすぎないのだが、少なくとも「行間を読むこと」と「建前文化」には何らかの関係がありそうだし、「文化」と「言語」の間にも
何らかの関係がありそうだと思っている(こういった研究をされている方の書籍や論文があればぜひ読んでみたい)。


では、本音と建前のような概念は本当に日本固有のものなのだろうか?

私は、日本には建前が「ありすぎる」だけであって、世界中いたるところに建前は「ある」と思う。

なぜならば、人間は誰しも二面性を持った生き物であり、その集合体である社会の中では「
演じる役柄」と「本来の自分」は明確に分けられているからだ。

つまり、
演じる役柄」が「建前」で、「本来の自分」は「本音」ということになる。

ニュアンスは若干違うかもしれないが、本質は同じだと思う。


かつて、シェイクスピアは世界を舞台にたとえ、世の中を俯瞰した。


「この世は舞台、人はみな役者に過ぎない」

"All the world's a stage, and all the men and woman merely players."


われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

役柄と人格を切り分ける、これは全ての人間が持つ「万国共通の自己欺瞞」ではないだろうか。

われわれの職業・仕事のほとんどはにわか芝居みたいなものだ。われわれは自分の配役をしっかり演じなくてはいけないが、その役を、借り物の人物として演じるべきだ。仮面や外見を、実際の本質としてはいけないし、他人のものを、自分のものにすべきではない。われわれは、皮膚と肌着を区別できない。でも、顔におしろいを塗れば十分であって、心にまで塗る必要はない。

出典:「モンテーニュ『エセー
7意思を節約することについて)』310より」


太陽と月――。

明るい太陽の下では品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

月は自転と公転が同期しているため、地球を1周する間に月自身もゆっくりと自転をしている。

そのため、地球から眺めると絶えず同じ面を向けているため、私たちは
月の裏側を見ることができないおそらく、私たちが見ている月とは「違った側面」を持っているのだろう。

何が言いたいかというと、人間も月と同様、「他人に見せる表の顔(光)」と「他人には見せない裏の顔(陰)」が存在しているということだ。

太陽の光を反射して見えている月の表面は表向きの顔であって、演じている役割にすぎない。

それは本心とは区別された、別の顔であるということ。

懐疑心から裏読みしすぎるのも良くないが、かといってキレイごとばかり並べる人間を無条件に信用するのも良くないだろう。


こんな格言がある。
 

悪人は雪に似ている。
はじめて会ったときは純白で美しく見えるが、
じき
に泥とぬかるみになる。

ユダヤ教「タルムード」より


本来の自分と演じる役柄」、「他人に見せる表の顔と他人には見せない裏の顔」、それが文化として定着したものが「本音と建前」だと私は思っている。

これらは一見すれば
自己欺瞞の塊であるものの、誰もが「嘘」であるとは認めない。

それは、有効に活用することによって社会を円滑化し、潤滑油としての役割を担っているのだろう。


人間社会というのは、結局のところ、ポーカーゲームと
本質は同じことだと思う。

テーブルの向こう側に座っている相手の「表情」や「発言」を読み解きつつ、相手との間に存在する情報の非対称性を考えながら、自分で論理を組み立てていくゲームと全く同じではないか。

それが「ブラフ(建前)」なのか「真実(本音)」なのかを見極めなければならないのだから。

ただ、ひとつだけ異なる点があるとすれば、ブラフばかり使うプレイヤーのテーブルには、誰も座りたがらなくなるということかな。 



何とも、人間社会はバランスをとるのが難しいものだ――。

意識の問題

 

グローバル社会と呼ばれて久しいが、いまだに国家という概念は存在しているし、国境線も健在だ。

もっとも、実感としては、国境線が実線から点線になってきたように思う[
1]。


海外旅行はひと昔前に比べればだいぶ身近な娯楽になったし、飛行機の窓から地球の表面を見渡せば、実は国境線など存在しないことに気が付くだろう。

そう考えると、国家や国境という概念は、私たち人間の意識が生み出した政治的な概念にすぎないということになろうか
...


*****


私たちは生まれながらにして「地球人」であると同時に、どこかの「国民」であり、それとは別に、どこかの「民族」に便宜上、分類される。

今の時代、
国境線を引いて、「日本国民≒日本人」のように、線の中にキレイに分布が収まるケースというのは実は非常に珍しい。

これは、日本が「ホモジニアス(単一民族国家)」であるという特徴があるからだろう(※厳密に言えば、日本は単一民族ではない。
大和民族はあくまでも多数派なだけ、北海道のアイヌ民族や沖縄の琉球民族の方々と共存している[2])。


アメリカを例にとれば、あるグローバル企業で働く従業員たちもそれぞれ
アイデンティティを持っていて、仕事が終わればWASPヒスパニック系、ユダヤ系、アラブ系、日系、華僑系、みんな自分たちのコミュニティに帰っていく。

しかし、
9.11同時多発テロのようにアメリカがひとたび攻撃を受けようものなら、星条旗の下に一致団結し、彼ら/彼女らのアイデンティティは一転してアメリカ人になる。

私の手元にある英語辞書で「国民」と「民族」を引くといずれも「
nation」と訳されているが、上記のアメリカの例を見れば、「国民」と「民族」というのは必ずしもイコールの概念ではないことがわかるだろう。


nation
出典:「論理積 (AND) P Q のベン図による表現」



アンダーソンによれば、
 

「民族は想像の共同体である」

ベネディクト・アンダーソン「定本 創造の共同体-ナショナリズムの起源と流行-」より


とされる。
 

民族とは、同じ言語を共有する人々であると定義されるが、そもそも言語の区別は客観性を持ち得ず、そこから想像された民族という概念もまた客観性を持つものではない。それゆえに、民族とは人間の意識が生み出した主観的な概念にしか過ぎないのである。

たしか上記のような論調だったと思う。


まず簡潔に、フランス国籍を持ってドイツ語を母国語(母語)とするアルザス・ロレーヌ地方(フランス)の人々のアイデンティティはどんなものなのかを考えてみたい。以下
は、簡単な歴史の経緯である。

*************************************************
1919年にパリで調印されたヴェルサイユ条約により、第1次世界大戦は公式に終了した。これにより、米・英・仏の3カ国が、強い主導権を握った。講和会議では、戦争で悲惨な被害を出したフランスのドイツに対する報復が目立ち、ドイツはフランスに対して多大な賠償金の債務を負うことになった。ドイツはすべての海外植民地を放棄させられ、鉄鉱石の9割を産出するアルザス・ロレーヌ地方をフランスに返還し、軍備も極端に制限された。もちろん他の同盟側諸国も領土を縮小された。
*************************************************

現在この地域に住む人々は、フランス国籍を有するフランス国民である。

その一方で、

現在この地域に住む人々は
、ドイツ語を母国語(母語)とするゲルマン民族に分類される。

nation」を単純に国籍で分類すれば、この地の人々のアイデンティティは「フランス人」となり、言語を背景とした母国語(母語)で分類すれば、「ゲルマン民族」となる。



次に、このような思想は、チェコ人のナショナリズムの歴史のなかにも見出すことができる。
以下は、簡単な歴史の経緯である。

*************************************************
現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていたスラブ民族の国家。チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義(汎スラブ主義)に基づく。第二次世界大戦後、チェコスロバキアは共和国として再統一される。1960年には社会主義共和国となったが、「プラハの春」と呼ばれる改革運動の結果、スロバキアはチェコと対等な社会主義共和国として連邦制への移行を果たした。しかし1970年代の「正常化」の過程で中央集権化が進められた結果、政治行政の権力は再びチェコ側に集中した。これらの経緯が、共産政権崩壊後の両国の分離を促す背景となった。
*************************************************


民族は言語により規定されるという考え方を示した人物として、ヤン・コラールが挙げられる。

彼は「汎スラブ主義」という概念を提唱した人物である。彼の主張によれば、スラブ人とは
1つの民族であり、スラブ語は1言語であるという、民族が「言語に基づく共同体」であると定義付けられる。

これに対し、カレル・ハヴリーチェクは「汎スラブ主義」を否定、スラブ人とは「
地理的、政治的、或いは文学的に区分された単なる名称でしかない」という考え方を示した。彼は、民族的な基礎付けは言語によってなされるべきだという立場をとり、チェコ語を基礎としたチェコ民族の再構築を目指した。

しかしながら、ハヴリーチェクの定義によれば、チェコ語を共有する民族の中には、スロヴァキア民族も含んだチェコ民族という、
2つの民族が存在することになる。

リュドヴィート・シュトゥールはハヴリーチェクの考えを利用し、スロヴァキア語を共有するスロヴァキア人という概念を「意図的に」作り出した。彼は『スロヴァキア語文法』を著し、スロヴァキア語がチェコ語の方言ではなく、チェコ語とは別の言語であることを証明した。

実は、チェコ語とスロヴァキア語の間にはほとんど相違はなく、両者を区別しているのは、「
人間の意識が生み出した政治的な決定」にすぎない。

この意味において、ただ単に話が通じるというだけでは必ずしも同じ言語とは定義されず、言語とは「
人間の主観に基づいた意識の中で決定されるもの」だということになるだろう。

以上に述べたように、民族とは人間の意識が生み出した主観的な概念にしか過ぎず、それを定義する根拠となっている言語もまた客観性を持ち得るものではないのである。

ゆえに、「民族は想像の共同体である」とされる。



最後に、気になることがあったので図書館で「韓国語」と「朝鮮語」の辞書を見比べてみた。

なるほど、ハングルは何となくしか読めないが、どちらの辞書もほぼ左右対称のように見える。

在日韓国人の友人に電話をかけて尋ねてみた。

「韓国と北朝鮮って同じ言葉を使っているよね?」

「まぁ、そうだね」

「同じ民族同士なのに、どうしてわざわざ分ける必要があるんだろう?」

「うーん、わからないなぁ。お互いを区別するための意識の問題じゃないのかな?」



今日でも依然として、世界各地で民族紛争が絶えず起こり続けている。

民族とは私たちの意識という「主観」が作りだした幻想にすぎないということを認識し、「客観的」に問題の解決に取り組んで行く必要があるのかもしれない。

一筋縄ではいかないけれど
... 

21
世紀が戦争のない平和な時代になることを心から願う次第である。





[1]10代半ば頃、オランダのカフェテラスでコーヒーを飲んでいたところ、足元の白十字の点線が気になったので店員のオネエさんに尋ねてみた。彼女にさらっと言われた、「ああ、これはベルギーとの国境線なのよ」。島国育ちの私にとって、国境に対する固定観念が崩れ去った瞬間だった...

[2]「共存」という言葉は多数派からの押し付けのニュアンスが強いので、少数派からすれば「同化」という表現が適切かもしれない。



※追記

 

社会人になってから、仕事に追われてゆっくり本を読む時間も減ってしまった。

文化的な時間を過ごすようにと上司からまとまった時間をいただいたので、何をしようか真剣に考えた。

吉原に住み込んで情緒的な快楽に浸る、放蕩生活を一度くらい堪能してみたかったが、①お金がないのと、②無事に
社会復帰できる自信がない、そして何よりも③上司に報告できない(笑)


ということで、久しぶりに大学のキャンパスを訪れて学生気分に戻った。

夏のひととき、
文化的な時間を過ごせたことにN部長とK先生には本当に感謝。


まったく学校にも行かず、授業にも出ず
... 

水商売にハマってしまった私からすれば完全にアウェイな場所だ
... 



近くて遠い場所、それが教室
...

行き過ぎた資本主義

 

「鳥はいいなぁ、どこまでも自由に飛んで行ける...



人類はかつて、
空を飛ぶことに憧れた。

やがて、
空を自由に飛べる技術を手に入れた人類は、さらに高く飛ぶことを夢見た。


そしてとうとう、人類は夢を叶えたのだ。

これで私たちはどこまでも高く、遠くまで飛んで行ける。


そしてある日、





燃料が切れた。




915日未明。

連邦倒産法第
11章の適用を申請し、リーマンブラザース社が破産した。


「もしもし、もしもし?

もしもーし?

全身鳥肌が立って、思わず携帯電話を落とした。


結局、アメリカ政府は
AIGを守ったわけだ。

Too big to fail...

救済資金
9兆円か...

そうか。


まぁそうか
...


日銀の定例市場報告を見ると、
デリバティブ取引の全体の残高(想定元本ベース)は、36.4兆ドルと記載されている。

いやいや、もっとあるだろ(笑)


リーマンブラザーズの取引残高が
7,000億米ドル超と言われているが(約70兆円≒日本の国家予算並み!?)、市場規模に対してはあまり影響がないと判断されたのだろうか?


一方で、


AIGCDS(クレジットデフォルトスワップ)の引き受けをしている。

これは簡単に言えば、オプション取引の売り手のことだ。

AIGは、債務不履行があった場合に債権者に対して無限責任の支払い義務を負っている。

CDSの発行残高が4,500~6,000兆円超とも言われているから、デリバティブ取引と比較すれば、こちらの市場規模のほうがはるかに大きい。


結局、
「守らなかったのか」「守れなかったのか」、私のような末端の金融マンにはわからない。



AIGを破綻させると、CDSという保険を契約している債権者はお金を回収できなくなる



債権者は世界中の金融機関だ



AIGを破綻させると、世界中の金融機関は代金を回収できず破綻する



世界中の金融機関が破綻すると、現在の
金融制度は維持できなくなる




リーマンブラザーズはレバレッジを掛けて運用しているイケイケの金融機関に過ぎないから、
そこまで大きな影響はないだろう



だからリーマンブラザーズを見捨てて、
AIG
を救済した


ということなのかな?



月曜日の朝、出社して端末を立ち上げたら、

カバーディール先一覧に、見慣れた「
Lehman Brothers, Inc.」の文字が見当たらなかった。


「本当に倒産したんだ。。。」


先日、六本木ヒルズにブラブラと散歩に出かけた。

ずんぐりとそびえ立つビルの前には巨大な
クモのオブジェクトが屋根のようになっていて、訪れる人たちは足の中をくぐってビルの中に吸い込まれて行く。

足元に「
Lehman Brothers, Inc.」と書かれた石碑がポツンと置かれたままだったのが印象的だった。


river

ゆく川の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつ結びて、
久しくとまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、
またかくの如し。 

(鴨長明「方丈記」冒頭より)


A「ふぅー、だいぶ遠くまで来たな。やばいな、燃料持つかな。隣に飛んでる人がいるからちょっと頼んでみようか。すいませーん、燃料を少し貸してもらえませんか?ちゃんと借用書書きますから!着陸したら多めに返しますよ。私こういう者です。ほら、信用できるでしょ?」

B「おー、わかった。そのかわり私も遠くに行く予定だから足りなくなるかもしれない。そのときは少し返してほしい。燃料は今取り出せないから代わりにこの受渡書を先に渡しとくよ」

A「ありがとう、助かります。周りもたくさん同じこと考えてる人がいるからお互いに貸し合ってもっと高度を上げて行きましょう!この上昇気流に乗らないやつはバカですよ、バカ。」

B「それもそうだな!足りなくなったら他から借りて増やす方法があったのか!君はなかなか賢いやつだな」

A「レバレッジってやつですよ。この紙を書くことで無いはずのものを作り出せるんです!人類はすごい発明をしたものですよ。」



昔、経済は社会の血液のようなものだと教わった。

そうだとすれば、
心臓から流れ出た血液は動脈を通って、体中を巡りながら栄養素を運び、静脈を通って再び心臓に戻ってくる。

ここで、血液の量が突然消えると何が起こるのか考えてみてほしい。

人間はこのような状況に陥ると、生命力を維持することを最優先するように
DNAにプログラムされている。

すると、優先順位を決めて後回しにされた部分には血液が送られず、逆に戻すように命令される。

肌のキメが粗くなったり、髪の毛が抜け落ちるのは、生命維持のための優先順位が低く、栄養素の運搬が後回しにされるからだ。

血液が流れなくなると、栄養が行き渡らなくなり、細胞の活動は停止する。

やがて細胞は息絶える。



A「すごいな、100tまでしかつめないはずの燃料がいつの間にか3,000tに増えてるぞ!借用書さえ書けば、燃料は無限に増やせるんだ!これは偉大な発明だ!」

B「おい、そろそろ燃料返してくれ。」

A「おー、必要になりましたか、あなたもだいぶ遠くまで来ましたね。今、用意しますよ。あれ、あと5tしかない、というかこっちも燃料が足りないかもしれないな、まずいぞ。おっかしいな、CさんDさんEさんたちからも100tずつ借りてたくさんあるはずなのに。モニター画面には3000tも残ってるし。Bさんごめんよ、モニター画面上にあるはずの燃料がどういうわけかタンクにないみたいなんだ。悪いけど他の人から調達してください。私は受渡書しかないので。それではごきげんよう。」

B「バカな?借用書ちゃんとあるんだぞ。こんな紙いらないからさっさと燃料返せよ。CDも同じこと言われて困ってるんだよ。地上のEに電話して用意してもらえ、早くしろ!」

AB「~というわけなんだ」

E「無理ですよ、あなたたちのいる場所は遠すぎて運べません。お言葉ですが、燃料なんて最初から存在しなかったんですよ。あなたは100tしか積めないジェット機を打ち上げて周りに借用書を書いて3,000tまで燃料を増やした。いや、正確に言えば増やしたことにした。でもそんなもの最初から存在しなかったんだ。
100tしか積めない燃料タンクのどこに30倍以上の燃料を積めるというのでしょうか。Bさんもそうですよ。あなたは100tしか積めないはずの燃料タンクを満タンにして飛び立ちました。Aさんに100t貸して、Cさんにも100tDさんにも100tBさんは100tしか持ってなかった、自分で100t消費したので差引マイナス300tだ。Bさんの燃料タンクの大きさはそのままです。この意味わかりますか?」


A「それもそうだな、Bさんそういうわけなんだ」

B「なるほど、私たちはうっかり計算ミスをしてしまったようだな」



これから数年後、何が起きるのだろうか。



資本主義というジェット機は高く遠くまで飛び過ぎてしまった。

もうすぐ、燃料切れを起こしたジェット機の群れが一斉に地上に墜落を始める。

墜落するときに緩衝材を敷いておかないと、
ダイレクトに地面に叩きつけられる。

いや、それだけでは済まず、地下の奥深くまでめり込むだろう。

そして、地上に巨大な亀裂が入り、やがてどこかで止まる。

どこか、まではさすがに私には想像できないが
...



景気はあがるときもあれば下がるときもある。

あがったものは下がり、下がったものはあがる。

底なし沼ではない。必ずどこかで止まる。



昔、経済は社会の血液のようなものだと教わった。

血液の循環を止めて一度だけ、じっくりと立ち止まって考える時間があればいいのだろうが、

資本主義の宿命は立ち止まって考えることが許されないのだ。


農家のヒトが小麦を作るのをやめてしまう



小麦がないとパンを作る材料がなくなる



材料がないと、パン屋さんはパンを作れなくなる



パンがないと私たちは食べるものがなくなる



食べるものがなくなると人々は残ったパンを奪い合って戦争になる



やがてパンはなくなり、人々は絶滅する




これから先、どれだけの致命傷を負っても、
地上の亀裂は完治する間もなく歩き続けなければならない。

資本主義の悲しい宿命だ。

立ち止まって考える時間はないのだ。


では、どうなるのか。


無理がたたって、いずれまた同じことを繰り返すだろう。


おそらく、一般論からすれば、

アメリカの株価が大暴落し、日本の株価も連動して大暴落する(と思う)。

アメリカドルの価値が暴落し、日本円の価値が上がる(と思う)。

これは決して日本円が強いというわけではなくて、相対的にアメリカドルの価値が弱くなるからだ。

日本円が強くなるということは、向かい風をもろに受ける輸出関連株を筆頭にやはり日本株は大暴落する(と思う)。

ということでやっぱり日本株は大暴落する(と思う)。

こんな感じだろうか(諸事情により断定表現は控える)。


すでに暴落が始まっているが、どこまで落ちるか想像できない。

現時点で株を持っている投資家の方は今のうちにロスカットしてポジションを直ちに決済するか、ファーアウトの屑プット(プットオプション)でも大量に買っといたほうがいいかもしれない。

プットオプションというのは先に述べた保険商品のようなもので、不幸な出来事が起こったときに受け取れる宝くじのような商品だ。もっとも掛け捨てなので、満期日には紙くずになる可能性もあるが。

ボラティリティ(相場変動率)が急激に跳ね上がる(と思われる)現在のような局面では、屑プットが緩衝材の役割を果たすことで、ポジション全体の受ける衝撃波をうまくカバー(ヘッジ)できるかもしれない。

あくまでも投資は自己責任で、だが。


たいしてこのブログ、アクセスないけど。。。



以前も書いたと思うが、今は国際化社会ではなくてグローバル社会だ。



ウォール街の金融マンたちは、浴槽にオーバーブローするほどの大量の水を注ぎ込み、こぼれないように張りぼての囲いを作り、さらに何倍、何十倍もの水を入れられる仕組みを作った。

高速に墜落して来るジェット機の群れが地上に衝突した瞬間に風呂の栓が抜けてしまうと、世界中の水は栓に向かって一斉に流れ出し、やがて消えて行くだろう。

さらに地上への衝突エネルギーの反動が大きすぎて、無理やり作った張りぼての囲いは津波によって崩壊するだろう。



お金が消える、でもお金は必要だ。

お金を用意するために、先進国は新興国から資金を引き揚げるだろう。

新興国も株価が暴落する。

なんとも悪循環ではないか。


最後になるが、今や実体経済と金融経済は主従関係が完全に逆転してしまった。

実体経済は金融経済に完全に引き連られてしまっている。

地震にたとえれば、実体経済は初動の
P波が到達したに過ぎない。

実体経済は、時間をおいて少しずつ悪化し、やがて本震の
S波が到達するものと思われる。

少なくとも半年、
1年後には立派な大人たちが過去の足跡をたどって答え合わせをし始めるだろう。





もっとも、資本主義の仕組みが維持できていればの話だが
...

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