「日本って、本音と建て前の二重社会だから疲れるよ
...

外国人の友人たちからよく聞く言葉だ。

日本語を流暢に話せる彼ら/彼女らでさえ、この文化を理解するのにひと苦労しているようだ。

本音と建前、この概念は日本人の文化的特徴を説明するときによく用いられる。


ただ、考えてみてほしい。


人間は誰しも少なからず裏と表を持った、二面性のあるいやらしい生き物ではないか。

明るい太陽の下では一見すると品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

そうだとすると、人間の集合体である社会や国家もまた、言いまわしは違えども、「本音と建前」のような概念は存在しているのではないだろうか?

多くの人々と交流し、生活を営んでいく社会という公共空間において、世界中の全ての人たちが本音を使ってしまったら、人間関係は殺伐としてしまうだろう。

小学生の頃、朝の会に知らない先生が入って来て「担任の○○先生は都合によりお休みします」と言われた。私は「何だ有給休暇かよー、大人はいいよな」と本音を言ったら「子どもがその言葉使うな(笑)」と言われてしまった。その先生は私たちを子ども扱いし、大人の事情を隠した上で、「都合により」という当たり障りのない建前を使ってその場をきれいに収めようとしていた。

そば屋に出前を頼んだ。しばらく待ったがなかなか持って来ないので、「まだですか?」と電話をしたら「今出ました」と言われた。両親の表情がイライラしていたのを察知した私は、子どもながらに解決策を考えた。自転車に乗って本当かどうか真意を確かめるべく、急いでそば屋に向かった。厨房に突入したらまだ作っていなかった。私が「なんで嘘つくんですか?」と店主に尋ねたら、「忙しい時はこういう言い回しをすることになっているんだよ」と言われた。これは「嘘」ではなく、日本では「建前文化」として当然のように活用されている。

ある営業マンは
「本当は契約を取りたい」という本音を隠しながら「話だけでも聞いてください」という建前を使って顧客にアプローチをかける。顧客もまた、「話だけでも聞いてください」というのが建前だということを分かった上で、営業マンの「本当は契約を取りたい」という本音をわかっているため、話を聞きながら「今、間に合っているから結構です」と体のいい断り文句を入れる。そしてこの断り文句もまた建前である。さらに、この営業マンに悪い印象を持たれないように、「ウザいからとっとと帰れ!」とストレートに言わないのが礼儀だ。どこで悪評が広まるかわからないのだから。

ある男性は、失恋して情緒不安定な女性に対して
「スキがあれば一夜の情交を楽しみたい」という本音(下心)を隠しつつ、「慰めるふり」をしながら愚痴を聞き、お酒を飲み交わす。女性もまた、「男性の優しさがその場かぎりのものであること(建前)」をわかっていながらも、ひとときの安心を求めたいという甘えと同時に、軽い女と思われないような建前(言い訳)を考える必要に迫られる。そこで、男性は女性に対して「お酒を勧める」「あたかも終電に乗り遅れてしまい、外部要因により帰れなくなった」などの口実(建前)を提供し、女性に非難が集中することを事前に回避するような配慮が求められている。 



世界は舞台――。

古代ローマの時代からおなじみの決まり文句だ。

われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

なるほど、
人間社会の本質はポーカーゲームと一緒ではないか。


昔からモヤモヤしていた人間の二面性について、この機会に頭を整理してみようと思う。

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【集団主義と個人主義】


日本には、「本音と建前」という文化がある。いや、厳密に言えば「ある」というよりも「ありすぎる」という表現のほうが適切だろうか。

日本は、地形学的に見れば、東西南北を海に囲まれた島国であって、大きな「村社会」である。同じ村の中で、同じ人たちと長い間付き合うのが習慣となっているし、多民族国家に比べれば人々の価値観にもバラツキが少ない。このような社会では「集団主義」「利他主義」の考え方が重視される傾向にある。

ところが、明治維新後に鎖国主義から開国主義へとパラダイムシフト(政策転換)が起こったことにより、「個人主義」の思想が日本にも輸入されるようになった。特に戦後は民主主義の普及とともに「個人主義」「利己主義」といった思想が浸透していった。

このように、現在の日本は、本来の「集団主義」「利他主義」と輸入品の「個人主義」「利己主義」が共存し、交錯する二重構造の価値観を持った社会になっている。

一般に、「集団主義」「利他主義」の社会では価値観のバラツキ(偏差)が小さいのに対して、「個人主義」「利己主義」の社会ではバラツキが大きくなる傾向にある。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これは値引き交渉を見ているとよくわかるのだが、「売り手」は、「買い手」が相当幅の値下げを要求することを見越して値段を高めに設定している。一方、「買い手」は、「売り手」が吹っかけてくることを見越して相当幅の値下げを要求することになる。その後、少しずつ互いに歩み寄って合意に達する。

これに対して日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。もしくは、事前に「定価」という意味不明な社会通念上の基準に
すり合わせた状態で交渉が始められる(そもそも交渉になっていないが)。そのため、交渉の席で欧米と日本双方の様式が交錯すると、お互いに混乱が生じることになる。

日本人の金額設定では、「売り手」が、ある価格を提示した後に大幅な値下げをした場合、
買い手は「最初の価格はいったい何だったのだ!?」と、「売り手」の誠意を疑い、不信感を持ってしまうことになる。そこで「売り手」としては、はじめから「買い手」が納得してくれるであろうと思われる妥当な金額を提示し、さらには誠意を示した証拠として値引き額まで丁寧に書き足されている(ことが多い)。そのため、交渉の席では交渉らしい事が一切行われず、交渉の席は印鑑を押すだけの場所となる(ことが多い)。

上記のような傾向は私の経験上、名刺交換ひとつとっても顕著に見られる。日本人相手の交渉の席では、まずは名刺交換から始まり、相手の会社名や役職名を確認し、世間話から交渉を進める。これは「集団主義」の思想が潜在意識に根付いているため、相手の所属先を確認することで一種の信用の担保を確保しているのだろうと思う。

一方、外国人相手の交渉の席では所属している組織よりも、その人物がどんな人物であるか探りを入れながら距離感を縮めて交渉を進める(ことが多い)。これは文化や価値観が異なる多民族国家などでは個人のバラツキ(信用リスク)が大きいため、最終的には「組織」対「組織」よりも「個人」対「個人」の交渉が幅を利かせるからなのだろう。名刺交換は、帰り際にぽいっと投げつけられて終わることもあった(笑)。

日本が建前社会で面倒くさいと言われるのは、「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋が、外国人にとっては理解不能なレベルにまで到達しているからだろう、と個人的には思う。

もっとも、
「おもてなし精神」の根底には利他主義というお人良しな国民性が影響していると考えれば、なかなか理解してもらえない分、某国に模倣される可能性は低いわけだが(笑)


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【建前主義の根底にあるもの】


先に日本が「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」が交錯する二重構造の社会になっていると述べた。

これはこれで、ある意味では説得力があるかもしれないが、鎖国をする以前にも日本には建前文化が存在していたようだ。そうだとすれば、上記の説明だけでは説得力に欠ける。

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最もわかりやすい例が、平安時代から続く京文化だろう。京都出身の知人に聞いた話では、「お茶を出されたら最低限
3回は断りを入れ、それでも薦めてくるようであれば召し上がりなさい」、と子どもの頃に教わったという。

つまり、お茶を出すのは建前であって、本音は「そろそろ帰ってくださらない?」という裏の意味が潜んでいることになる(京都怖ぇぇ
)。郷に入っては郷に従え、ところ変われば処世術も変わるようだ(※追記「常識の違い」)。

※日本の「行間を読む」という文化は、京文化が発祥ではないかと思う。日本固有の「建前」文化は、「行間を読む」文化と切っても切り離せない関係であり、またそれらが相互作用により相乗効果を生み出し、独自文化としてガラパゴス化していったのではなかろうか

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私は日本が建前社会といわれる根底には、実は母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思っている。

つまり、
「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」、両者の思想の根底にあるものは言語そのものではないかということ。

ひとつは二人称の使い方について。

たとえば英語は「あなた」は全部
”You”だ。友人に対しても”You”、大統領に対しても”You”自分に銃口を向けてくる相手に対しても”You”。つまり英語は、どんな立場、どんな状況であれ、二人称が誰に対しても平等に統一された言語となっている(※私の知る限り、ドイツ語には親しい人間にのみ用いられる別の言い回しもある)。

一方で、日本語には「あなた」に対応する表現がたくさんある。「きみ」「御前」「貴殿」「貴公」「貴君」など、ざっと思いつくだけでもこれだけある(なお、日本人は相手を罵るときも
「貴様」と敬語を使うようだ)。つまり日本語は、自分よりも目上の人間か目下の人間かによって二人称を使い分ける言語となっている(※私の知る限り、中国語には敬称として別の言い回しもある)。

このように、日本語は立場や状況に応じて相手に対する二人称が変わるため、英語と比較して
リスクオフの傾向が強い言語だといえるだろう。ゆえに、世間体を気にする言語の資質が建前文化を生み出した――。

これは、完全に私の仮説。

もうひとつは文法体系そのものについて。

たとえば英語は文法の構造上、主語(
S)→述語(V)→目的語(O)→補語(O)の語順で話が進むため、主語の後は結論である述語が先に来て、目的語や補語は後ろに回される。

極論を言えば、重要な順番で並んでいるため、文の冒頭の「何が(主語)」「どうした(述語)」だけ理解できれば最低限の文章が完成するため言い手と聞き手の間で理解がブレることが少ない。

例: 
Your smile makes me happy.

ところが、日本語だと
文法の構造上、主語(S→補語(O→目的語(O→述語(Vの語順で話が進むため、主語の後は補語や目的語が来て、結論である述語は後ろに回される。つまり、最後まで話を聞かないと、文章として何を言っているか理解できなくなる。ゆえに、途中で理解不能になると、最後は言い手と聞き手の間に理解のブレが生じやすくなる(いわゆる認知不協和)。

例: きみの笑顔は 私を 幸せに する

先に述べた交渉の話を思い出してほしい。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これに対して、
日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。

両者の交渉の進め方を見ると、欧米社会の交渉の席ではいきなり結論から攻めているのに対して、日本人の交渉の席では過程を大事にして最後に結論を持ってきていることがわかるだろう。

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英語では主語の次にいきなり述語(結論)、その後に
補語や目的語(建前?)。

日本語では主語の次に補語や目的語(
建前)、最後に述語(結論)。

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こういった母国語の言語体系によって思考回路が異なるため、日本語は一見すると遠回りになるが、
建前というクッションを十分に敷いた上で、最後に言い出しづらい部分(つまり結論、交渉でいえば条件や金額)をやんわりと出す――。

これも、完全に私の仮説。

あくまでも私の今までの体験からそういった傾向があるだけの話なので、科学的な根拠はないのかもしれない。ただ、ひとつだけ言えることは、「言語と
文化は相互に影響し合っており、両者は決して切り離すことができないもの」であり、「日本人の思考回路は少なからず母国語である日本語の影響を受けているだろう」ということ。

だから、
英語が話せるだけの自称「国際人」や自称「グローバリスト」を目指しても意味がないし、―自分の祖国のことはもちろん―、相手の国の歴史や伝統もしっかり学ばないと笑われてしまう。

同様に私たちは、時として日本人でさえ混乱を招く
「本音と建前」というまわりくどい文化を、しっかりと外国人に理解してもらうよう努めなければならないだろう。

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【万国共通のポーカーゲーム】


日本には「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋があり、それが「おもてなし精神」を生み出した一方、「行間を読む」「本音と建前」というまわりくどい文化を生み出した。

そして、日本が建前社会といわれる根底には、じつは母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思う。

なぜならば、英語圏をはじめ世界に多く見られる、主語の後に述語が続く言語圏の人々が結論を重視するのに対して、主語の後に補語や目的語が続き、最後に述語を持ってくる日本語では、過程を重視しながら最後に結論を出す傾向があるからだ。

上記は、私自身の実体験やまわりの友人たちからの伝聞にすぎず、あくまでも仮説にすぎないのだが、少なくとも「行間を読むこと」と「建前文化」には何らかの関係がありそうだし、「文化」と「言語」の間にも
何らかの関係がありそうだと思っている(こういった研究をされている方の書籍や論文があればぜひ読んでみたい)。


では、本音と建前のような概念は本当に日本固有のものなのだろうか?

私は、日本には建前が「ありすぎる」だけであって、世界中いたるところに建前は「ある」と思う。

なぜならば、人間は誰しも二面性を持った生き物であり、その集合体である社会の中では「
演じる役柄」と「本来の自分」は明確に分けられているからだ。

つまり、
演じる役柄」が「建前」で、「本来の自分」は「本音」ということになる。

ニュアンスは若干違うかもしれないが、本質は同じだと思う。


かつて、シェイクスピアは世界を舞台にたとえ、世の中を俯瞰した。


「この世は舞台、人はみな役者に過ぎない」

"All the world's a stage, and all the men and woman merely players."


われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

役柄と人格を切り分ける、これは全ての人間が持つ「万国共通の自己欺瞞」ではないだろうか。

われわれの職業・仕事のほとんどはにわか芝居みたいなものだ。われわれは自分の配役をしっかり演じなくてはいけないが、その役を、借り物の人物として演じるべきだ。仮面や外見を、実際の本質としてはいけないし、他人のものを、自分のものにすべきではない。われわれは、皮膚と肌着を区別できない。でも、顔におしろいを塗れば十分であって、心にまで塗る必要はない。

出典:「モンテーニュ『エセー
7意思を節約することについて)』310より」


太陽と月――。

明るい太陽の下では品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

月は自転と公転が同期しているため、地球を1周する間に月自身もゆっくりと自転をしている。

そのため、地球から眺めると絶えず同じ面を向けているため、私たちは
月の裏側を見ることができないおそらく、私たちが見ている月とは「違った側面」を持っているのだろう。

何が言いたいかというと、人間も月と同様、「他人に見せる表の顔(光)」と「他人には見せない裏の顔(陰)」が存在しているということだ。

太陽の光を反射して見えている月の表面は表向きの顔であって、演じている役割にすぎない。

それは本心とは区別された、別の顔であるということ。

懐疑心から裏読みしすぎるのも良くないが、かといってキレイごとばかり並べる人間を無条件に信用するのも良くないだろう。


こんな格言がある。
 

悪人は雪に似ている。
はじめて会ったときは純白で美しく見えるが、
じき
に泥とぬかるみになる。

ユダヤ教「タルムード」より


本来の自分と演じる役柄」、「他人に見せる表の顔と他人には見せない裏の顔」、それが文化として定着したものが「本音と建前」だと私は思っている。

これらは一見すれば
自己欺瞞の塊であるものの、誰もが「嘘」であるとは認めない。

それは、有効に活用することによって社会を円滑化し、潤滑油としての役割を担っているのだろう。


人間社会というのは、結局のところ、ポーカーゲームと
本質は同じことだと思う。

テーブルの向こう側に座っている相手の「表情」や「発言」を読み解きつつ、相手との間に存在する情報の非対称性を考えながら、自分で論理を組み立てていくゲームと全く同じではないか。

それが「ブラフ(建前)」なのか「真実(本音)」なのかを見極めなければならないのだから。

ただ、ひとつだけ異なる点があるとすれば、ブラフばかり使うプレイヤーのテーブルには、誰も座りたがらなくなるということかな。 



何とも、人間社会はバランスをとるのが難しいものだ――。