柱の裏の落書き

ひまつぶしにぶつぶつ書いてみる

本音と建前


「日本って、本音と建て前の二重社会だから疲れるよ
...

外国人の友人たちからよく聞く言葉だ。

日本語を流暢に話せる彼ら/彼女らでさえ、この文化を理解するのにひと苦労しているようだ。

本音と建前、この概念は日本人の文化的特徴を説明するときによく用いられる。


ただ、考えてみてほしい。


人間は誰しも少なからず裏と表を持った、二面性のあるいやらしい生き物ではないか。

明るい太陽の下では一見すると品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

そうだとすると、人間の集合体である社会や国家もまた、言いまわしは違えども、「本音と建前」のような概念は存在しているのではないだろうか?

多くの人々と交流し、生活を営んでいく社会という公共空間において、世界中の全ての人たちが本音を使ってしまったら、人間関係は殺伐としてしまうだろう。

小学生の頃、朝の会に知らない先生が入って来て「担任の○○先生は都合によりお休みします」と言われた。私は「何だ有給休暇かよー、大人はいいよな」と本音を言ったら「子どもがその言葉使うな(笑)」と言われてしまった。その先生は私たちを子ども扱いし、大人の事情を隠した上で、「都合により」という当たり障りのない建前を使ってその場をきれいに収めようとしていた。

そば屋に出前を頼んだ。しばらく待ったがなかなか持って来ないので、「まだですか?」と電話をしたら「今出ました」と言われた。両親の表情がイライラしていたのを察知した私は、子どもながらに解決策を考えた。自転車に乗って本当かどうか真意を確かめるべく、急いでそば屋に向かった。厨房に突入したらまだ作っていなかった。私が「なんで嘘つくんですか?」と店主に尋ねたら、「忙しい時はこういう言い回しをすることになっているんだよ」と言われた。これは「嘘」ではなく、日本では「建前文化」として当然のように活用されている。

ある営業マンは
「本当は契約を取りたい」という本音を隠しながら「話だけでも聞いてください」という建前を使って顧客にアプローチをかける。顧客もまた、「話だけでも聞いてください」というのが建前だということを分かった上で、営業マンの「本当は契約を取りたい」という本音をわかっているため、話を聞きながら「今、間に合っているから結構です」と体のいい断り文句を入れる。そしてこの断り文句もまた建前である。さらに、この営業マンに悪い印象を持たれないように、「ウザいからとっとと帰れ!」とストレートに言わないのが礼儀だ。どこで悪評が広まるかわからないのだから。

ある男性は、失恋して情緒不安定な女性に対して
「スキがあれば一夜の情交を楽しみたい」という本音(下心)を隠しつつ、「慰めるふり」をしながら愚痴を聞き、お酒を飲み交わす。女性もまた、「男性の優しさがその場かぎりのものであること(建前)」をわかっていながらも、ひとときの安心を求めたいという甘えと同時に、軽い女と思われないような建前(言い訳)を考える必要に迫られる。そこで、男性は女性に対して「お酒を勧める」「あたかも終電に乗り遅れてしまい、外部要因により帰れなくなった」などの口実(建前)を提供し、女性に非難が集中することを事前に回避するような配慮が求められている。 



世界は舞台――。

古代ローマの時代からおなじみの決まり文句だ。

われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

なるほど、
人間社会の本質はポーカーゲームと一緒ではないか。


昔からモヤモヤしていた人間の二面性について、この機会に頭を整理してみようと思う。

*****


【集団主義と個人主義】


日本には、「本音と建前」という文化がある。いや、厳密に言えば「ある」というよりも「ありすぎる」という表現のほうが適切だろうか。

日本は、地形学的に見れば、東西南北を海に囲まれた島国であって、大きな「村社会」である。同じ村の中で、同じ人たちと長い間付き合うのが習慣となっているし、多民族国家に比べれば人々の価値観にもバラツキが少ない。このような社会では「集団主義」「利他主義」の考え方が重視される傾向にある。

ところが、明治維新後に鎖国主義から開国主義へとパラダイムシフト(政策転換)が起こったことにより、「個人主義」の思想が日本にも輸入されるようになった。特に戦後は民主主義の普及とともに「個人主義」「利己主義」といった思想が浸透していった。

このように、現在の日本は、本来の「集団主義」「利他主義」と輸入品の「個人主義」「利己主義」が共存し、交錯する二重構造の価値観を持った社会になっている。

一般に、「集団主義」「利他主義」の社会では価値観のバラツキ(偏差)が小さいのに対して、「個人主義」「利己主義」の社会ではバラツキが大きくなる傾向にある。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これは値引き交渉を見ているとよくわかるのだが、「売り手」は、「買い手」が相当幅の値下げを要求することを見越して値段を高めに設定している。一方、「買い手」は、「売り手」が吹っかけてくることを見越して相当幅の値下げを要求することになる。その後、少しずつ互いに歩み寄って合意に達する。

これに対して日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。もしくは、事前に「定価」という意味不明な社会通念上の基準に
すり合わせた状態で交渉が始められる(そもそも交渉になっていないが)。そのため、交渉の席で欧米と日本双方の様式が交錯すると、お互いに混乱が生じることになる。

日本人の金額設定では、「売り手」が、ある価格を提示した後に大幅な値下げをした場合、
買い手は「最初の価格はいったい何だったのだ!?」と、「売り手」の誠意を疑い、不信感を持ってしまうことになる。そこで「売り手」としては、はじめから「買い手」が納得してくれるであろうと思われる妥当な金額を提示し、さらには誠意を示した証拠として値引き額まで丁寧に書き足されている(ことが多い)。そのため、交渉の席では交渉らしい事が一切行われず、交渉の席は印鑑を押すだけの場所となる(ことが多い)。

上記のような傾向は私の経験上、名刺交換ひとつとっても顕著に見られる。日本人相手の交渉の席では、まずは名刺交換から始まり、相手の会社名や役職名を確認し、世間話から交渉を進める。これは「集団主義」の思想が潜在意識に根付いているため、相手の所属先を確認することで一種の信用の担保を確保しているのだろうと思う。

一方、外国人相手の交渉の席では所属している組織よりも、その人物がどんな人物であるか探りを入れながら距離感を縮めて交渉を進める(ことが多い)。これは文化や価値観が異なる多民族国家などでは個人のバラツキ(信用リスク)が大きいため、最終的には「組織」対「組織」よりも「個人」対「個人」の交渉が幅を利かせるからなのだろう。名刺交換は、帰り際にぽいっと投げつけられて終わることもあった(笑)。

日本が建前社会で面倒くさいと言われるのは、「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋が、外国人にとっては理解不能なレベルにまで到達しているからだろう、と個人的には思う。

もっとも、
「おもてなし精神」の根底には利他主義というお人良しな国民性が影響していると考えれば、なかなか理解してもらえない分、某国に模倣される可能性は低いわけだが(笑)


*****


【建前主義の根底にあるもの】


先に日本が「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」が交錯する二重構造の社会になっていると述べた。

これはこれで、ある意味では説得力があるかもしれないが、鎖国をする以前にも日本には建前文化が存在していたようだ。そうだとすれば、上記の説明だけでは説得力に欠ける。

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最もわかりやすい例が、平安時代から続く京文化だろう。京都出身の知人に聞いた話では、「お茶を出されたら最低限
3回は断りを入れ、それでも薦めてくるようであれば召し上がりなさい」、と子どもの頃に教わったという。

つまり、お茶を出すのは建前であって、本音は「そろそろ帰ってくださらない?」という裏の意味が潜んでいることになる(京都怖ぇぇ
)。郷に入っては郷に従え、ところ変われば処世術も変わるようだ(※追記「常識の違い」)。

※日本の「行間を読む」という文化は、京文化が発祥ではないかと思う。日本固有の「建前」文化は、「行間を読む」文化と切っても切り離せない関係であり、またそれらが相互作用により相乗効果を生み出し、独自文化としてガラパゴス化していったのではなかろうか

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私は日本が建前社会といわれる根底には、実は母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思っている。

つまり、
「集団主義」「利他主義」と「個人主義」「利己主義」、両者の思想の根底にあるものは言語そのものではないかということ。

ひとつは二人称の使い方について。

たとえば英語は「あなた」は全部
”You”だ。友人に対しても”You”、大統領に対しても”You”自分に銃口を向けてくる相手に対しても”You”。つまり英語は、どんな立場、どんな状況であれ、二人称が誰に対しても平等に統一された言語となっている(※私の知る限り、ドイツ語には親しい人間にのみ用いられる別の言い回しもある)。

一方で、日本語には「あなた」に対応する表現がたくさんある。「きみ」「御前」「貴殿」「貴公」「貴君」など、ざっと思いつくだけでもこれだけある(なお、日本人は相手を罵るときも
「貴様」と敬語を使うようだ)。つまり日本語は、自分よりも目上の人間か目下の人間かによって二人称を使い分ける言語となっている(※私の知る限り、中国語には敬称として別の言い回しもある)。

このように、日本語は立場や状況に応じて相手に対する二人称が変わるため、英語と比較して
リスクオフの傾向が強い言語だといえるだろう。ゆえに、世間体を気にする言語の資質が建前文化を生み出した――。

これは、完全に私の仮説。

もうひとつは文法体系そのものについて。

たとえば英語は文法の構造上、主語(
S)→述語(V)→目的語(O)→補語(O)の語順で話が進むため、主語の後は結論である述語が先に来て、目的語や補語は後ろに回される。

極論を言えば、重要な順番で並んでいるため、文の冒頭の「何が(主語)」「どうした(述語)」だけ理解できれば最低限の文章が完成するため言い手と聞き手の間で理解がブレることが少ない。

例: 
Your smile makes me happy.

ところが、日本語だと
文法の構造上、主語(S→補語(O→目的語(O→述語(Vの語順で話が進むため、主語の後は補語や目的語が来て、結論である述語は後ろに回される。つまり、最後まで話を聞かないと、文章として何を言っているか理解できなくなる。ゆえに、途中で理解不能になると、最後は言い手と聞き手の間に理解のブレが生じやすくなる(いわゆる認知不協和)。

例: きみの笑顔は 私を 幸せに する

先に述べた交渉の話を思い出してほしい。

欧米社会の交渉の席では、まずはお互いが自分の要求を「最大限」に提示した上で、お互いが歩み寄りの姿勢を示し、最後に均衡点(妥協点)を探っていく方法が採られる。

これに対して、
日本人の交渉の席では、まずはお互いが建前から入って交渉の余地を残した上で、相互の均衡点まですり合わせるといった事が行われる。

両者の交渉の進め方を見ると、欧米社会の交渉の席ではいきなり結論から攻めているのに対して、日本人の交渉の席では過程を大事にして最後に結論を持ってきていることがわかるだろう。

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英語では主語の次にいきなり述語(結論)、その後に
補語や目的語(建前?)。

日本語では主語の次に補語や目的語(
建前)、最後に述語(結論)。

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こういった母国語の言語体系によって思考回路が異なるため、日本語は一見すると遠回りになるが、
建前というクッションを十分に敷いた上で、最後に言い出しづらい部分(つまり結論、交渉でいえば条件や金額)をやんわりと出す――。

これも、完全に私の仮説。

あくまでも私の今までの体験からそういった傾向があるだけの話なので、科学的な根拠はないのかもしれない。ただ、ひとつだけ言えることは、「言語と
文化は相互に影響し合っており、両者は決して切り離すことができないもの」であり、「日本人の思考回路は少なからず母国語である日本語の影響を受けているだろう」ということ。

だから、
英語が話せるだけの自称「国際人」や自称「グローバリスト」を目指しても意味がないし、―自分の祖国のことはもちろん―、相手の国の歴史や伝統もしっかり学ばないと笑われてしまう。

同様に私たちは、時として日本人でさえ混乱を招く
「本音と建前」というまわりくどい文化を、しっかりと外国人に理解してもらうよう努めなければならないだろう。

*****


【万国共通のポーカーゲーム】


日本には「利他主義」というあまりにも他人を気遣いすぎる繊細な心粋があり、それが「おもてなし精神」を生み出した一方、「行間を読む」「本音と建前」というまわりくどい文化を生み出した。

そして、日本が建前社会といわれる根底には、じつは母国語である日本語の影響が大きいのではないかと思う。

なぜならば、英語圏をはじめ世界に多く見られる、主語の後に述語が続く言語圏の人々が結論を重視するのに対して、主語の後に補語や目的語が続き、最後に述語を持ってくる日本語では、過程を重視しながら最後に結論を出す傾向があるからだ。

上記は、私自身の実体験やまわりの友人たちからの伝聞にすぎず、あくまでも仮説にすぎないのだが、少なくとも「行間を読むこと」と「建前文化」には何らかの関係がありそうだし、「文化」と「言語」の間にも
何らかの関係がありそうだと思っている(こういった研究をされている方の書籍や論文があればぜひ読んでみたい)。


では、本音と建前のような概念は本当に日本固有のものなのだろうか?

私は、日本には建前が「ありすぎる」だけであって、世界中いたるところに建前は「ある」と思う。

なぜならば、人間は誰しも二面性を持った生き物であり、その集合体である社会の中では「
演じる役柄」と「本来の自分」は明確に分けられているからだ。

つまり、
演じる役柄」が「建前」で、「本来の自分」は「本音」ということになる。

ニュアンスは若干違うかもしれないが、本質は同じだと思う。


かつて、シェイクスピアは世界を舞台にたとえ、世の中を俯瞰した。


「この世は舞台、人はみな役者に過ぎない」

"All the world's a stage, and all the men and woman merely players."


われわれは仮面をかぶった役者にすぎず、「演じる役柄」と「本来の自分」を混同してはならないという。

役柄と人格を切り分ける、これは全ての人間が持つ「万国共通の自己欺瞞」ではないだろうか。

われわれの職業・仕事のほとんどはにわか芝居みたいなものだ。われわれは自分の配役をしっかり演じなくてはいけないが、その役を、借り物の人物として演じるべきだ。仮面や外見を、実際の本質としてはいけないし、他人のものを、自分のものにすべきではない。われわれは、皮膚と肌着を区別できない。でも、顔におしろいを塗れば十分であって、心にまで塗る必要はない。

出典:「モンテーニュ『エセー
7意思を節約することについて)』310より」


太陽と月――。

明るい太陽の下では品行方正な紳士淑女も、顔の見えない月明かりの下では本性を露わにする。

月は自転と公転が同期しているため、地球を1周する間に月自身もゆっくりと自転をしている。

そのため、地球から眺めると絶えず同じ面を向けているため、私たちは
月の裏側を見ることができないおそらく、私たちが見ている月とは「違った側面」を持っているのだろう。

何が言いたいかというと、人間も月と同様、「他人に見せる表の顔(光)」と「他人には見せない裏の顔(陰)」が存在しているということだ。

太陽の光を反射して見えている月の表面は表向きの顔であって、演じている役割にすぎない。

それは本心とは区別された、別の顔であるということ。

懐疑心から裏読みしすぎるのも良くないが、かといってキレイごとばかり並べる人間を無条件に信用するのも良くないだろう。


こんな格言がある。
 

悪人は雪に似ている。
はじめて会ったときは純白で美しく見えるが、
じき
に泥とぬかるみになる。

ユダヤ教「タルムード」より


本来の自分と演じる役柄」、「他人に見せる表の顔と他人には見せない裏の顔」、それが文化として定着したものが「本音と建前」だと私は思っている。

これらは一見すれば
自己欺瞞の塊であるものの、誰もが「嘘」であるとは認めない。

それは、有効に活用することによって社会を円滑化し、潤滑油としての役割を担っているのだろう。


人間社会というのは、結局のところ、ポーカーゲームと
本質は同じことだと思う。

テーブルの向こう側に座っている相手の「表情」や「発言」を読み解きつつ、相手との間に存在する情報の非対称性を考えながら、自分で論理を組み立てていくゲームと全く同じではないか。

それが「ブラフ(建前)」なのか「真実(本音)」なのかを見極めなければならないのだから。

ただ、ひとつだけ異なる点があるとすれば、ブラフばかり使うプレイヤーのテーブルには、誰も座りたがらなくなるということかな。 



何とも、人間社会はバランスをとるのが難しいものだ――。

第六感


人間の感覚って究極まで研ぎ澄まされると、どこまで行き着くのだろうか?


私は嗅覚が非常に敏感で、香水も自分で調合したものを使っている。


柑橘系の香りが好きなので、トップがレモンとベルガモットに少々のオレンジ、ミドルがピーチリーブスとコリアンダー、ここにホワイトジャスミンが入る。

ラストがシダーウッドとサンダルウッド、オゾアニックアコードの構成となっている。

これは、「アクアノヴァのインテンスヒム+バーバリーのウィークエンド」の香りをべき乗してルートで割ったような感じで、ここに全体的にホワイトムスクを付け足すと仕事後の夜遊びにも使えるという、とても爽やかだけど、どこかセクシーな香りとなる。


トップからミドルに切り替わる20分後±1分くらいの絶妙なタイミングが、私にとって至福の時間だ。

金融マーケットで言えば、ボックス相場からトレンド相場に切り替わるシグナルアラートとでも表現するのだろうか。

我ながら、こだわる部分が完全に変態の領域だと思う(笑)



*****


最近、ストレスが溜まりすぎて大変だ。

私はもともと、嗅覚がかなり鋭い人間なんだけど、睡眠時間が十分に確保できなかったり、頭を整理する時間がなかったりすると、匂いにも喜怒哀楽や息遣いを感じるレベルに到達する(なんとも大げさな表現だが...)

こうなると、満員電車と人混みがマジで地獄だ。マスクをしないと外出が困難になる。

いろんな臭い(匂い)が全方向から飛んで来るから、うっかり因数分解しようとすると気が狂いそうになるのだ。

朝からモグラ叩きが始まると、仕事前に途方に暮れることになる...

私のような症状を「嗅覚過敏症」と呼ぶらしく、ストレスから来る症状なのだそうだ。


それにしても、すごい時代が来たもんだよ。

診察を受けると、ただちに病名を付けられて病人にされてしまうのだから。


*****



小学生の時だったか、体育館の忘れ物の体操服を嗅いで同級生によく届けた。

先生から、「お前は警察犬か」と言われたことがある(笑)

この事を知っている人たちから、「私ってどんな匂いがしますか?」と聞かれるんだけど、なんか人間ってそれぞれの個体とかあるいはDNAによって特有の匂いがあるんだと思う。

ほら、友だちの家に遊びに行くと、その家特有の匂いがあるのと一緒でさ。


人間には感覚によって外界の出来事を認識するための機能があって、一般的に「視覚」、「聴覚」、「触覚」、「味覚」、「嗅覚」の「五種類」に分類されることから「五感」と呼ばれている。

たとえば、「視覚」を例にとれば、視覚障がい者の人たちは晴眼者に比べて、障害物の知覚能力に優れているとされる。この現象は、「視覚」によって外界の出来事を感知できないために、「聴覚」が平均以上に発達し、私たちが聞き逃してしまうような音も聞こえたりするという(もっとも、「残存諸感覚」を訓練し効果的に使用する訓練をする必要があるらしい)。

また、余談だが、サヴァン症候群といって、知的障がいや発達障がいの人たちのなかには、ランダムな年月日の曜日を言えたり、円周率や周期表を暗記したりと、特定の分野にかぎって優れた能力を発揮する方々もいる。



*****


文明化した社会に暮らす私たちは、原始社会に比べると、感覚が鈍くなっていると言われる。

たとえば、科学調味料がなかった時代は、人間の味覚は今よりもっと敏感だったはずだ。

ところが、科学調味料が汎用化され、一般家庭やチェーン店に普及するようになってからは、素材本来の味よりも科学調味料の味のほうがおいしいと脳が認識してしまい、舌鼓を打つという表現を口に出す機会も減ってきたように思う。

私もB級グルメが大好きなので、年々味覚がおかしくなっているのかもしれない。


先に、「視覚」、「聴覚」、「触覚」、「味覚」、「嗅覚」が古典的な分類による人間の認識機能だと書いたが、原始社会の人たちは、これら五感に加えて、第六感(シックスセンス)と呼ばれる感覚にも優れていたのかもしれない。

私は目に見えないような非科学的な現象は、正直、半信半疑であって、あまり信じるほうではないんだけど、これは一理あるかもしれないとも思う。

第六感とは、理屈では説明しがたい感覚のことを言い、一般的に霊的な現象に用いられることが多いが(私は霊感がまったくない)、「空気を読む」というのも、ある意味では第六感に分類されるのではなかろうか?


身近な例を考えてみると、皆さんにも当てはまることはないだろうか?


【お辞儀】

お辞儀をすると頭を下げるから相手のことは見えない。

しかし、どういうわけか同じタイミングで頭を上げる。

これは間合いを読むとも言うのだろうか。

文化の影響だと思うが、日本人は抜群にこの感覚に秀でていると思う。


【挨拶】

30メートルくらい先から知ってる人が歩いてきた時。

どのタイミングで気づいたふりしてあいさつするか迷う。

あまり早く声をかけすぎると、すれ違うまでの数秒間が気まずい。

この場合、どこか別の方を向いたり、携帯をチェックするなどして、相手が近づいて来ていることに気づいていないフリをする。

そして、直前まで来たとき、まさに今気付いたようにさりげなく会釈をする。

これも間合い。


【追加料金】

ライスを大盛りにしたいけど、追加料金がかかる場合、店員さんにわざとらしく「うーん、どうしようかな~?」と言って、「あー、やっぱり普通盛りで!」っていうと、ちょっと多めに盛ってくれることがある。

絶妙な間の取り方と行間を読んで欲しそうな顔の表情がポイント。

これは演技力になるのかな。


【口臭】

クンクン。

私「お前、胃が悪い。すぐ病院行け!」

友「は?」

私「胃が悪い人の臭いがする、失礼だけど臭いよ」

友「本当に失礼だな」

後日、彼は胃潰瘍で入院した。

私は空気が読めるほうだと自覚しているが、時と場合によっては空気を読まない。

すいません、でも相手のためなのです。


【女性の化粧】

本人は気づかないかもしれないが、女性の友人がメイクを変えたと思う時。

アイシャドーが若干濃くなったり、眉毛のラインが少し角度が変わったり。

この場合は、「こいつ、男変えたな」と思う。

これ、だいたい当たってる。


【移り香】

女性の友人から違う香水の匂いがする時。

クンクン。

私「○○ちゃん香水変えた?」

友「え、変えてないけど...

私「他に女がいるかも...

この場合、恋人が浮気していることが考えられる。

友「マジで二股だった...

私の鼻で発覚したので、すごく感謝されたことがある。

マジで警察犬なめるなよ(笑)

これは確証がないので毎度、推測の域だが...



こういった症状はたいてい睡眠不足だったり、理性が低下して本能だけで何とか生き延びている状態になると、慢性的に起こる。


何だろう、時々自分が嫌になるが...

【口臭】と【移り香】は私の鼻が敏感なせいかもしれないけれども、【お辞儀】や【挨拶】は「空気を読む」という理屈では説明できない間合い、すなわち行間を読む能力として納得いただけるのではないかと思う。


こうして書き出しながら考えてみると、たくさん出てくる



【スポーツ選手】

サッカーやバスケットボール
選手は、ボールを小さい網の中に入れる感覚に秀でているし、相手が走るスピードに合わせて、適切な位置にボールパスを出す。

おそらく感覚として、絶妙な距離感を測る物差しを持っているのだろう。


【無言のプレッシャー】

ランチタイムなど、混雑している定食屋で席の後ろに立ってる人も、食べている人に対して無言のプレッシャーをかける。

ランチを食べている人は、背中全体で後ろの人が何を言っているかわかると思う。

これも背中で感じる不思議な能力だ。


【温度差】

パーティー会場に行くと、知らない人だらけで、外側でポツーンと立っている人見知りの男性がいる。彼は、誰かに気づいてもらおうとちょっとそわそわしながら控え目に自己アピールしている。

誰かが気づいて、呼んでくれると面倒くさそうな表情をしながらも、心の中では実はちょっと嬉しそうに現地へ向かう。

これも、中心と周りの温度差を敏感に察知できる能力だと思う。こういう方が会場にいると、人見知りは助かる。

人見知りの男性とは、もちろん私のことだが...


【最適化】

会議のコーディネーターやイベントのオーガナイザーは、場の雰囲気を敏感に感じ取って席の配置を最適化する能力が高い。

私の友人でクラブイベントのオーガナイザーをしている男がいるが、私の目線と表情を読んで、立ち位置を最適化してくれる(つまり、私が最もタイプだと思う女性の隣に座らせてくれる)。個人的にこいつは、この能力に関して「だけ」は天才だと思う(笑)


以上、合コンのネタ置き場みたいになってしまったが、人間とはやはりその本性は「動物」であり、しょせんは「獣」にすぎない。


その本能として、五感を使って外界の出来事を認識しているものの、あくまでも五感として便宜的に分類されているだけであって、私はこの中に分類できない認識機能、すなわち第六感もたくさん存在しているのではないかと思う。

頭のいい人たちはわからない事があると、すぐ教科書に頼ってしまうが、社会に出てからマニュアルどおりに行かないことが多すぎて、挫折してしまう人間が多いように思う。

社会の本質を理解するためには、理論だけでは不十分だ。

やっぱり外に出て、感性を磨く時間も大切なのだと思う。

人間は理性を持った高等生物かもしれないが、適度に本能も刺激しないとバランス感覚がとれなくなるのではないのかな?


第六感、意外と現代人も現代人なりに持っているのかもしれない...

お金でヒトは幸せになれるのか?

 

むかしむかし、ある貧しい家に二人の子どもがいました。

お兄さんの名前をチルチル、妹の名前をミチルといいました。

クリスマスイブの夜に、魔法使いのおばあさんが家にやって来て言いました。


「私の孫が病気でな。青い鳥を見つけて来てくれたら治るんじゃ。
どうか青い鳥を見つけてきておくれ」

「うん、わかったよ」


チルチルとミチルは鳥かごを持って、青い鳥を探す旅に出ました。

二人は死んでしまった人たちに会える「思い出の国」、
戦争や病気がたくさんある「夜の御殿」、「贅沢の御殿」や「未来の国」にも行きました。

どこの国にも青い鳥はいましたが、
捕まえるとみんなダメになってしまいました。


疲れ果てて家路に着いた二人は眠りにつき、
お母さんの声で目覚めました。


「さあ起きなさい、今日はクリスマスよ」


チルチルとミチルは結局、青い鳥を捕まえることができませんでした。

二人はふとカゴの中を見ると、飼っていたキジバトの羽根が青かったことに気付きます。

チルチルが言いました。



「僕たち気づかなかったけど、この鳥ずっとここにいたんだな」




メーテルリンクの『青い鳥』の物語のなかで、
魔法使いのおばあさんを通して筆者が伝えたかったことは、幸せはすぐそばにあって、なかなか気づかないものということなのだろう。


*****


多くの人間がお金を得ようと必死に働く。

ところが、お金は丸い形をしていて、

あちこちに転がっていくため、

なかなか捕まえられない。

みんな必死になって追いかける。

朝から晩まで追いかける。


ある人間はお金のために体を壊し、

ある人間はお金のために家族を失い、

ある人間はお金のために死んでいった。


身近で本当にいろんな人間を見てきた。


みんな幸せになれると信じて、

限られたパイの中から、

お金を必死に奪い合う。


資本主義の真ん中に身を置いて、

転がっていくお金を我先にと追いかける人々。

実に滑稽な姿だ。

もっとも私も翻弄されるプレーヤーの一人なのだが。


自分でお金を稼ぐようになってわかった。

お金は「手段」であって「目的」ではない、と。

人生の選択肢が少し広がるだけのことだ。

それ「以上」でもそれ「以下」でもない。


また、


お金は「善」でも「悪」でもない。

何かを手に入れるために汎用化・効率化された「手段」にすぎない。

お金を「目的」とした人間は、その多くが不幸になっていった。



実家を出てひとり暮らしを始めたころ、私は本当にお金がなかった。

今もあるわけではないけど
...

だから、少なくとも「お金がない」というのが
どういう状態のことをいうのかを理解しているつもりだ。



あの頃、本当に苦しかった。

惨めだった。情けなかった。




お金がないと心が荒み、他人を妬み、心が平穏でなくなる。

「明日、どうやってご飯を食べようか」

もっと究極の状態は、

「どうやって生き延びようか」という話になる。

「何を食べようか」という贅沢なレベルではなくて、

「何が食べられるか」というレベルの話だ。


だからお金はないよりはあったほうがいいと思う。

なくてもいいなんて綺麗ごとを言うつもりはない。

あればあるに越したことはない。 


でも、実際にお金を持つと、今度は失わないように必死になる。

そして、自分よりもお金を持っている人間に対して「劣等感」を覚え、

自分よりもお金を持っていない人間に対して「優越感」を覚える。


人間とはその本性は実にいやらしいもので、

「絶対的」にではなく、「相対的」に幸せを計ってしまう愚かな生き物なのだ。


幸福を求めると満足からは遠ざかり、

満足を求めると幸福からは遠ざかる。

幸福と満足はトレードオフの関係だ。


「絶対的な幸せ」と「相対的な幸せ」



お金との付き合い方もバランス感覚が大事なのだろう。


お金で買えない物は沢山あるが、お金があれば回避できる不幸が多いのも事実だ。

村上龍



昨年、昔お世話になった知人の離婚裁判を傍聴した。

詳しくは書けないが、会社の精算処理でいろいろモメていた。

私は旦那さんも奥さんも知っていたので、
何とも居た堪れない気分だった。

法廷というのは、
人間の持つ「負」の側面が激しくぶつかり合う、実に嫌な場所だ。


先日、久しぶりに元奥さんと食事をした。

別れ際に彼女が言った言葉が印象的だった。



「嫌なこともたくさんあったけど、あの頃が幸せだったのかしらね
...



見送った後ろ姿がどこか寂しげだった。 



青い鳥はなかなか気づかないけれど
...

私たちの日常の中にいるのかもしれない。

みなさんもぜひ見つけてみてほしい。

 

 bluebird


幸せは得たときに実感するものと、

失ってはじめて実感するものがある。

でも、圧倒的に後者のほうが多いと思う。

だからみんなこう言うのだ、

「ああ、幸せだった」、と
...


人々が幸せについて語るとき、

その多くは過去形である。

辞世の句


毎年、秋を感じる季節になると何とも言えない死生観にとらわれる。

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる


藤原敏行(古今和歌集「秋上」より)
 


日本の気候風土は春夏秋冬という豊かな土地柄のせいだろうか、

季節の変わり目の風を感じると、強烈に感受性を刺激されることがある。


次第に色づき、
紅や黄色に染まっていく山々の木々。

枯れ果てる最後の瞬間まで必死に咲き誇ろうとする姿を観ると、

やがて訪れる冬に、自分たちに終わりが来ることを知っているからなのだろうか、

生命ゆえの儚さを感じてしまう。


*****


千束村の別墅に楓樹数株を植ゑて

うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
秋はにしきを 織りいだすらむ

染めいづる 此の山かげの 紅葉は
残す心の にしきとも見よ

勝海舟(飛川歌集より)


数年ぶりに大田区の洗足池にある、勝海舟の墓参りに行ってきた。


実は、数年前に友人と「お~い竜馬」の漫画に完全にハマってしまい、週末のたびに幕末の人物たちの墓参りに訪れた時期があった。


勝海舟といえば、徳川家の幕臣でありながら、広い視野と先見の明を持ち、坂本竜馬や西郷隆盛といった開国派の人物たちを開眼させ、江戸城無血開城に貢献した人物だ。

今風に言えば、既得権を握る大企業の幹部職にありながら、その体制を内部から猛烈に批判し、新興ベンチャー企業の顧問を密かに兼任していた人物といったところだろうか。 

もっとも、見方によっては佐幕派の情報を開国派に流し続けた内通者であり、裏切り者とも解釈できるわけだが、「勝てば官軍」という言葉があるように、幕末史の中ではだいぶ美化されて語られている節があることは事実だ。

私はそれでも、彼の
「ダメなものはダメだ!」とはっきり正面切って批判できる姿勢が好きだ。

安定した地位を捨ててまで、国家全体の方向性や公益性を考えられる広い世界観、今の政治家の先生方にもぜひ見習ってほしいところだ。


さて、


考えてみれば「死者と弔う」というのはきわめて高尚な行為であると思う。

死者は、「わざわざ来てくれてありがとう」とお礼も言ってくれないし、ましてや「これで上手いもんでも食べなさい」などとお小遣いもくれないのだ。

ただ純粋に目を閉じて墓前で手を合わせる。

ただ純粋に...

唯物論者には理解できない「魂との会話」、それは至極スピリチャルな行為であり、経済的合理性のような損得勘定ではとうてい説明できない理解不能な行為だ。


私は生まれつき死生観が強く、墓参りに行くたびに、その人物が「何をしたか」という結果よりも、「どう考え」行動したのか、「何のために」生涯を捧げたのか、といった「思想」や「哲学」に非常に興味関心がある。 

結果論だけで考えてしまうと、出来事というのは、どうしても運や偶然に左右されてしまう部分がある。だから、私は「何をしたか」よりも思考や哲学こそが人物のあり方をよく説明してくれると思っている。思考や哲学によって、その人物の内面に入り込むことができるからだ。

時世の句というのは、
死が目前に迫った時、最後に自らの生き様を伝える究極のメッセージであり、非常に心に響くのだ。

身はたとえ 武蔵の野辺に くちぬとも
留め置かまし 大和魂

吉田
松陰

さつきやみ あやめわかたぬ 浮世の中に
なくは私しとほととぎす

木戸
孝允桂 小五郎

面白き こともなき世を面白く
住みなすものは 心なりけり

高杉
晋作

ふたつなき 道にこの身を 捨小船
波たたばとて 風吹かばとて

西郷
隆盛

ふたたひと 還らぬ歳を はかなくも
今は惜しまぬ 身となりにけり

武市
瑞山(武市 半平太

世の中の 人は何とも云はばいへ
わがなすことは われのみぞ知る

坂本
竜馬

君が為め 尽くす心は 水の泡
消えにし後は 澄みわたる空

岡田
以蔵


なかには時世の句ではないけれども、彼らがその瞬間、何を考えていたのか後世を生きる私たちにも鼓動や息遣いが鮮明に伝わってくるのではないだろうか。


なお、私がもっとも心に響いたのは、土佐の
吉村寅太郎だろうか。


彼の名前は竜馬や西郷に比べれば、完全に埋もれてしまった人物であり、日本史の教科書を開いても歴史の表舞台に名前さえ出てこない。

彼は攘夷思想に傾倒し、土佐勤王党に加盟。寺田屋事件で捕縛され投獄。

保釈後は京都へ上り、
天誅組を結成し大和国で挙兵するも、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍に吉野山を包囲され、追い詰められてしまう



あと少しで歴史を変えることができた、情勢さえ変わらなければ。


さぞや無念だっただろう。悔しかっただろう。


彼は敵陣に包囲される中、銃撃を受け、戦死した。


享年
27歳。





momiji1

 

 

吉野山 風に乱るる もみじ葉は
我が打つ太刀の 血煙と見よ

吉村 寅太郎
 



歴史はいつも勝者が作るといわれる。


勝者はいつの時代であれ、後世を生きる人間に過度な承認欲求を持ち、自らの期待値を高め、美化された物語を残そうと努める。

ゆえに、都合のいい事実を組み合わせ、都合の悪い事実は葬られていく。


それでも、と私は思うのだ。


それは決して単純にファクトデータを組み合わせた無機質なものではなくて、多くの人間の行動や感情、思想が交じり合った、情緒的で有機質なものなのだ。



人は生まれ、やがて死んでいく。



秋の夜長、じっくりと先人たちの生き様を学んでみるのもいいのではなかろうか。

意識の問題

 

グローバル社会と呼ばれて久しいが、いまだに国家という概念は存在しているし、国境線も健在だ。

もっとも、実感としては、国境線が実線から点線になってきたように思う[
1]。


海外旅行はひと昔前に比べればだいぶ身近な娯楽になったし、飛行機の窓から地球の表面を見渡せば、実は国境線など存在しないことに気が付くだろう。

そう考えると、国家や国境という概念は、私たち人間の意識が生み出した政治的な概念にすぎないということになろうか
...


*****


私たちは生まれながらにして「地球人」であると同時に、どこかの「国民」であり、それとは別に、どこかの「民族」に便宜上、分類される。

今の時代、
国境線を引いて、「日本国民≒日本人」のように、線の中にキレイに分布が収まるケースというのは実は非常に珍しい。

これは、日本が「ホモジニアス(単一民族国家)」であるという特徴があるからだろう(※厳密に言えば、日本は単一民族ではない。
大和民族はあくまでも多数派なだけ、北海道のアイヌ民族や沖縄の琉球民族の方々と共存している[2])。


アメリカを例にとれば、あるグローバル企業で働く従業員たちもそれぞれ
アイデンティティを持っていて、仕事が終わればWASPヒスパニック系、ユダヤ系、アラブ系、日系、華僑系、みんな自分たちのコミュニティに帰っていく。

しかし、
9.11同時多発テロのようにアメリカがひとたび攻撃を受けようものなら、星条旗の下に一致団結し、彼ら/彼女らのアイデンティティは一転してアメリカ人になる。

私の手元にある英語辞書で「国民」と「民族」を引くといずれも「
nation」と訳されているが、上記のアメリカの例を見れば、「国民」と「民族」というのは必ずしもイコールの概念ではないことがわかるだろう。


nation
出典:「論理積 (AND) P Q のベン図による表現」



アンダーソンによれば、
 

「民族は想像の共同体である」

ベネディクト・アンダーソン「定本 創造の共同体-ナショナリズムの起源と流行-」より


とされる。
 

民族とは、同じ言語を共有する人々であると定義されるが、そもそも言語の区別は客観性を持ち得ず、そこから想像された民族という概念もまた客観性を持つものではない。それゆえに、民族とは人間の意識が生み出した主観的な概念にしか過ぎないのである。

たしか上記のような論調だったと思う。


まず簡潔に、フランス国籍を持ってドイツ語を母国語(母語)とするアルザス・ロレーヌ地方(フランス)の人々のアイデンティティはどんなものなのかを考えてみたい。以下
は、簡単な歴史の経緯である。

*************************************************
1919年にパリで調印されたヴェルサイユ条約により、第1次世界大戦は公式に終了した。これにより、米・英・仏の3カ国が、強い主導権を握った。講和会議では、戦争で悲惨な被害を出したフランスのドイツに対する報復が目立ち、ドイツはフランスに対して多大な賠償金の債務を負うことになった。ドイツはすべての海外植民地を放棄させられ、鉄鉱石の9割を産出するアルザス・ロレーヌ地方をフランスに返還し、軍備も極端に制限された。もちろん他の同盟側諸国も領土を縮小された。
*************************************************

現在この地域に住む人々は、フランス国籍を有するフランス国民である。

その一方で、

現在この地域に住む人々は
、ドイツ語を母国語(母語)とするゲルマン民族に分類される。

nation」を単純に国籍で分類すれば、この地の人々のアイデンティティは「フランス人」となり、言語を背景とした母国語(母語)で分類すれば、「ゲルマン民族」となる。



次に、このような思想は、チェコ人のナショナリズムの歴史のなかにも見出すことができる。
以下は、簡単な歴史の経緯である。

*************************************************
現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていたスラブ民族の国家。チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義(汎スラブ主義)に基づく。第二次世界大戦後、チェコスロバキアは共和国として再統一される。1960年には社会主義共和国となったが、「プラハの春」と呼ばれる改革運動の結果、スロバキアはチェコと対等な社会主義共和国として連邦制への移行を果たした。しかし1970年代の「正常化」の過程で中央集権化が進められた結果、政治行政の権力は再びチェコ側に集中した。これらの経緯が、共産政権崩壊後の両国の分離を促す背景となった。
*************************************************


民族は言語により規定されるという考え方を示した人物として、ヤン・コラールが挙げられる。

彼は「汎スラブ主義」という概念を提唱した人物である。彼の主張によれば、スラブ人とは
1つの民族であり、スラブ語は1言語であるという、民族が「言語に基づく共同体」であると定義付けられる。

これに対し、カレル・ハヴリーチェクは「汎スラブ主義」を否定、スラブ人とは「
地理的、政治的、或いは文学的に区分された単なる名称でしかない」という考え方を示した。彼は、民族的な基礎付けは言語によってなされるべきだという立場をとり、チェコ語を基礎としたチェコ民族の再構築を目指した。

しかしながら、ハヴリーチェクの定義によれば、チェコ語を共有する民族の中には、スロヴァキア民族も含んだチェコ民族という、
2つの民族が存在することになる。

リュドヴィート・シュトゥールはハヴリーチェクの考えを利用し、スロヴァキア語を共有するスロヴァキア人という概念を「意図的に」作り出した。彼は『スロヴァキア語文法』を著し、スロヴァキア語がチェコ語の方言ではなく、チェコ語とは別の言語であることを証明した。

実は、チェコ語とスロヴァキア語の間にはほとんど相違はなく、両者を区別しているのは、「
人間の意識が生み出した政治的な決定」にすぎない。

この意味において、ただ単に話が通じるというだけでは必ずしも同じ言語とは定義されず、言語とは「
人間の主観に基づいた意識の中で決定されるもの」だということになるだろう。

以上に述べたように、民族とは人間の意識が生み出した主観的な概念にしか過ぎず、それを定義する根拠となっている言語もまた客観性を持ち得るものではないのである。

ゆえに、「民族は想像の共同体である」とされる。



最後に、気になることがあったので図書館で「韓国語」と「朝鮮語」の辞書を見比べてみた。

なるほど、ハングルは何となくしか読めないが、どちらの辞書もほぼ左右対称のように見える。

在日韓国人の友人に電話をかけて尋ねてみた。

「韓国と北朝鮮って同じ言葉を使っているよね?」

「まぁ、そうだね」

「同じ民族同士なのに、どうしてわざわざ分ける必要があるんだろう?」

「うーん、わからないなぁ。お互いを区別するための意識の問題じゃないのかな?」



今日でも依然として、世界各地で民族紛争が絶えず起こり続けている。

民族とは私たちの意識という「主観」が作りだした幻想にすぎないということを認識し、「客観的」に問題の解決に取り組んで行く必要があるのかもしれない。

一筋縄ではいかないけれど
... 

21
世紀が戦争のない平和な時代になることを心から願う次第である。





[1]10代半ば頃、オランダのカフェテラスでコーヒーを飲んでいたところ、足元の白十字の点線が気になったので店員のオネエさんに尋ねてみた。彼女にさらっと言われた、「ああ、これはベルギーとの国境線なのよ」。島国育ちの私にとって、国境に対する固定観念が崩れ去った瞬間だった...

[2]「共存」という言葉は多数派からの押し付けのニュアンスが強いので、少数派からすれば「同化」という表現が適切かもしれない。



※追記

 

社会人になってから、仕事に追われてゆっくり本を読む時間も減ってしまった。

文化的な時間を過ごすようにと上司からまとまった時間をいただいたので、何をしようか真剣に考えた。

吉原に住み込んで情緒的な快楽に浸る、放蕩生活を一度くらい堪能してみたかったが、①お金がないのと、②無事に
社会復帰できる自信がない、そして何よりも③上司に報告できない(笑)


ということで、久しぶりに大学のキャンパスを訪れて学生気分に戻った。

夏のひととき、
文化的な時間を過ごせたことにN部長とK先生には本当に感謝。


まったく学校にも行かず、授業にも出ず
... 

水商売にハマってしまった私からすれば完全にアウェイな場所だ
... 



近くて遠い場所、それが教室
...

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